〜ギリアン・リン〜

　　ギリアンは八歳だったが、すでに将来が危ぶまれていた。彼女の学業は最悪だっ

　た。

　　彼女は学級会体の問題児で、ひとしきり騒がしく動き回ったと思えば、次の瞬間

　には窓から外をじっと眺めていたりする。先生は、ギリアンの注意を引き戻すため

　に授業を中断するのだが、次の瞬間には、まわりの生徒たちにちょっかいを出す始

　末だった。ギリアン自身は時に気にしていなかったが、学校側が両親に手紙を書い

　たことから、このことがにわかに問題化した。

　　学校側は、ギリアンには学習障害が認められるので、養護学級のある学校に移る

　ほうが本人のためになると考えた。これは一九三〇年代の話である。現在ならば、

　このような子どもは注意欠陥多動性障害（ＡＤＨＤ）として、リタリンのような向

　精神薬を処方されるところだ。しかし当時は、まだＡＤＨＤという病名がなかった

　のだ。

　　学校からの手紙を読んで、母親はとても心配になり、精神科医を訪れて診断を仰

　いだ。

　　精神科医は、母親に向かって約二〇分にわたり、ギリアンの学校でのトラブルや

　学校側から説明された問題行動について質問を続けた。その間、ギリアンに直接質

　問することはなく、ただ注意深く彼女を観察するだけだった。このことでギリアン

　は極度の緊張と不安に襲われた。彼女には、この男性が自分の人生に重大な影響力

　を持つことがわかった。（養護学校）の何たるかも知っていたので、絶対に転校は

　したくなかった。

　　ようやく、母親と精神科医は話すのをやめた。医師は机から立ち上がり、彼女が

　座っているソファまで来ると、隣に腰をおろした。

　「ギリアン、すまないけれど、もう少しがまんして待っててくれないかな。お母さ

　んと二人だけで話をするのでね。しばらく部屋の外に出るけれど、心配はいらない

　よ。そんなに長くはかからないからね」

　　二人は彼女を残して部屋の外に出た。部屋を出る前に、精神科医はラジオのスイ

　ッチを入れた。

　　二人が廊下に出るとすぐ、母親はこう言われた。「ちょっとそこに立っていてく

　ださい。そして、彼女の様子を観察してください」

　　部屋には窓があって、二人はギリアンから見えないように、窓の端のほうに立っ

　ていた。ギリアンは一人になると、すぐにソファから立ち上がり、音楽にあわせて

　部屋の中を踊り回った。おとな二人は、その場で数分の間、この様子を眺めていた

　が、少女の優雅な身のこなしにすっかり魅了されていた。ギリアンの動きには天性

　ともいうべき、自然な何かが備わっていたからだ。精神科医は母親に向かってこう

　言った。

　「ギリアンは病気ではありませんよ。彼女は生まれながらのダンサーなんです。す

　ぐにダンス教室に通わせてください」

　　母親は医師に言われたとおりにした。

　　ギリアンは当時のことをこう話してくれた。

　「口では言えないほど素晴らしいことでした。ダンス教室に行くと、私と同じよう

　な人が大勢いたのです。じっと座っていられない人たち。身体を動かさないと考え

　られない人たちがね」

　　ギリアンは、それから毎週ダンス教室に通うようになり、自宅でも毎日練習を重

　ねた。ロンドンにあるロイヤルバレエ学校のオーディションに合格し、その後は英

　国ロイヤル・バレエ団の団員として迎えられ、ソリストとして世界中を公演して回

　った。バレリーナを引退すると、自らミュージカル劇団を立ち上げ、プロデューサ

　ーとしてロンドンやニューヨークでいくつもの公演を成功させた。その後、ギリア

　ンは大成功をおさめた『キャッツ』や『オペラ座の怪人』をふくめ、輝かしい数々

　のミュージカルを手がけることになる。

　　現在の彼女は、世界長高の振付師のひとりとして、多くの人々に喜びをもたらし

　ている。この成功の真には、彼女の心の奥を見抜いた人物がいた。その人は彼女の

　ような子どもを扱った経験者で、彼女の才能の兆候を見逃さなかった。別のだれか

　なら、彼女を病人として治療対象にし、静かにするように叱ったかもしれない。し

　かし、彼女は問題児ではなかったし、養護学校に転校する必要もなかった。ギリア

　ン・リンに必要だったのは、真に自分らしく生きることだった。

　　　　　　　　○

　ギリアン・リンは、小学生の時、学業は最悪だった。

　「学習障害」と判断されたし、現在なら、ＡＤＨＤと診断されるほどだった。記述を見る限り

では、たぶん、そう判断されただろう。

　途方に暮れた母親が専門医に相談した時、専門医は、ギリアンの才能を見抜いた。

　「彼女は学習障害ではない、ダンサーなのだ」と。

　ギリアンは、ダンス教室に行って、「口では言えないほど」嬉しかった。また、ダンス教室に

は、自分と同じような「身体を動かしながら考える」タイプの子たちがたくさんいたと言う。

　ギリアンは、その後成長して、ダンサーとなり成功し、「振り付け師」となり、「キャッツ」

や「オペラ座の怪人」を担当し、世界中の人たちを感動させている。

　もしも、「専門医」が、「発達障害」と診断していたら、ギリアンは、「ダンススクール」に

も通えず、「薬着け」の日々を送り、才能も失われてしまっただろう。

　「自分をよく知り、自分らしく生きる」

　簡単なようで、それはとても難しい。

　現代では、ギリアンの時代よりも良くなっていると、言えるだろうか？

　現代では、かえって難しいことになっているようにも見える。

　ギリアンのように生きるチャンスがある社会の方が、いい社会であることは、確実であると僕

には思える。

（この項、了）