〜聴覚過敏とスーパーマーケット〜　

　　　　　　　　　　　○

　　妻はどんなによく眠っているように見えても、目を開けた瞬間、まるでスイッチ

　を入れたみたいに、即、脳が起動するらしいんだ。一瞬で日中モードに切り換わる

　ので、目が覚めたとたん、いきなり昼間と同じように考えたり話したりするし、突

　然ふとんから起き出して何かをやり始めたりする（寝ぼけているわけでは全然ない）。

　半分目が覚めた状態でふとんの中でうとうととまろどんだりしていることは、ほと

　んどない。

　「まどろむ、だよ。まろどむじゃない」

　　はいはい。こっちは朝起きたって、そんなに急には頭が回らない。朝食を食べ終

　わって、体にエネルギーが補充された頃、やっと頭がまともに働き始めるんだから

　ね。ま、それはともかく、音の方向や距離をつかむ能力は、妻の方がずっと鋭いっ

　てことは確かだ。家にいて何か物音がした時、二人がまるで違う方向にさっと目を

　向ける、なんてことはしょっちゅう。でもどうやってそれが「何の」音かを一瞬で

　判断できるのか、そこが僕には一番の謎だ。

　　カチャ。

　「台所の水切りカゴの食器がズレただけ」

　　ゴソパサッ。

　「そこのゴミ箱にさっき丸めて捨てた紙が、広がろうとしてるだけ」

　　ボゴォンガシャ。

　「風呂場でボディソープのポンプボトルが浴槽のフチから落っこちただけ」

　　はああ、そうですか……

　　　　　　　　　　　　○

　この記述も、興味深い。

　まず、朝、目を開けた瞬間に、即、脳が動き出すことができる、という記述は面白い。

　これは、動物に近い状態だと言えるのではないだろうか。人間は、その能力が退化して、ど

んどん、朝にはなかなか起きられなくなっている。しかし、実際には、自然状態の動物であれ

ば、朝起きて、すぐに活動できなければ、生死の問題に関わることもあるに違いない。

　また、「妻」は、家の中の「音」を聞いただけで、それがどこの、何の音か、まで、即座に

答えることができる。それも、「聴覚」で世界を判断している度合いが高いことを意味して

いるのだと思われる。

　だが、この聴覚過敏も、一歩、外を出ると大変なことになってしまう。

　　　　　　　　　　　○

　　ところで、妻の妙に鋭い聴覚も家の中でならまだ、そんなに問題にはならない。

　ただし、一歩外に出ると話は別だ。買い物しにスーパーに行っただけで、ざわざわ

　と入り混じった雑多な種類の音があらゆる方向から押し寄せてくる。行きつけの場

　所ならある程度慣れているけれど、妻の場合、店内放送が一番苦手だ。特に絶え間

　なくかかっているＢＧＭがどうしても気になるんだそうで、耳に入ってくる音楽を

　どうしても意識からふり払えず、しかもなぜか、いちいち題名を頭の中で確認せず

　にはいられないんだという。知ってる曲なのにタイトルが思い出せなかったりする

　と、そのことが妙〜に気になって、その後いつまでも、ずっとそのことを考え続け

　てしまったりするんだって

　「ＢＧＭが流れるたびに、頭の中で曲名あてクイズをやってる？　冗談だろ！」

　　それって、面白すぎ。でも本人が言うには、別に趣味でやってるわけでもないし、

　それが楽しいわけでもないという。

　「ただ周囲のあらゆるメロディが頭ん中に流れ込んでくるのを、自分では止められ

　ないだけなの！　それだけでもいいかげんうるさくて大変なのに、いちいち記憶の

　中から曲名を探し出してマッチングする作業までせずにはいられないんだよ！　信

　じられる？　この、ものすごいエネルギーの無駄づかい。疲れるし、我ながらホン

　トうんざりする。なのに、どうしても曲名考えるのがやめられないの！」

　　それって、一体……頭の中、どうなってるんだ？

　　妻の耳は音楽のほかにも、周囲の人の話の内容から、店内放送の一言一句、どこ

　かで子どもが買ってほしいと騒いでいるおやつの商品名まで。ありとあらゆる無意

　味な雑音も拾っている。店ではそうした大量の音の刺激と同時に、棚にどっさり並

　んだ色とりどりの商品や、まぶしい店内照明といった目への刺激も大量に押し寄せ

　てくるから大変だ。入ってくる刺激の量が限界を超えると処理しきれなくなり、神

　経がオーバーロードを起こす。こうなると、時にはただ近所に買い物に行っただけ

　で、ぐったり疲れてしまうこともある。

　　　　　　　　　　　○

　一部の自閉症者にとっては、スーパーマーケットというのは、相当なストレスな場になって

いるのだと思える。聴覚過敏の耳には、あらゆる情報が、フィルターを通さずに、いっぺんに

入ってきてしまう。　

　ＢＧＭ、店内放送、話し声、子供の遊ぶ声、等々…。言われてみれば、確かにそうだなと思

えることばかりだ。

　僕たちは、無意識のうちに、音を「処理」していて、意識のところまで登ってくることはな

い。だから、スーパーマーケットでも、平気でいられるのだ。

　自閉症者の「聴覚優位」の耳には、音の取捨選択ができない。すべてを拾ってしまう。

　光も、同じことが言える。

　かつて見たテレビでは、ドナ・ウィリアムスは、サングラスをして、スーパーマーケットに

入っていた。そうすることで、目に入る情報量が減るので、少し楽になる。