〜心が通い合うとき〜
とフランに訊かれたので、ぼくは「一九七九年一月三十一日」と答えた。「六十五 歳になる日は日曜日だね」とキムが答えた。ぼくはうなずいて、キムに誕生日を訊 いた。「一九五一年十一月十一日」とキムは答えた。ぼくはにっこりして「その日 は日曜日だ！」と言った。キムの表情が輝き、ぼくにはふたりの心が通い合ったの がわかった。 ○ イギリスに戻りながらいろいろ考えた。キムとぼくには共通点がたくさんあるが、 いちばん大事なのは、ふたりで過ごしたとき、ぼくたちの心がつながっていること を実感できたことだ。ぼくたちの人生は多くの面で異なってはいるが、それでも特 別な深い縁があったのだ。だからこそ、ぼくたちはこうして会うことができ、会っ た日に相手のなかに友情というとてもすばらしいものを見いだすことができた。ぼ くは、彼と父親がぼくをとても温かく迎えてくれ、自分たちの過去を率直にざっく ばらんに話してくれたことに強く胸を打たれた。キムに与えられた特殊な才能はそ の頭脳だけではなく、その人柄、人間的な優しさ、独自の方法で人の生き方を変え る力にもあらわれている。キム・ピークと出会えたときが、ぼくのこれまでの人生 でいちばん幸せな瞬間だった。 ○ ダニエル・タメットは、初めてキム・ピークに会った瞬間に、心が交流したことを実感してい る。ほとんど言葉を交わしたわけではない。お互いの誕生日について語っただけだ。 一般的に、自閉症者は、相手の気持ちはわからないし、心を交流させることはできない（難し い）、と言われている。 だが、そんなことは、定型発達者の「外側から見た自閉症」からのウソにしか過ぎないのでは ないだろうか。実際には、自閉症者同士には、心の交流ができると思う。 その交流は、とても深いものだ。ダニエル・タメットは、「キム・ピークと出会えたとき が、ぼくのこれまでの人生でいちばん幸せな瞬間だった。」と言っているが、これは「社交 辞令」ではなく、本当にそう感じたから書いているものだ。 これは、僕にも経験がある。 かつて、言葉のない自閉の子（男子）ふたりの担任だったときに、ふたりとも言葉を交わさな いのに、ふと気がつくと、いつも近くにいることに気がついたことがある。特に触れ合うわけで もなければ、見つめ合っているわけでもない。でも、何故か、近い距離にいるのだ。 これは、この子たちにとって、お互いを意識しているということではないのかと、ショックを 受けたことがある。 こういうことはありえるのではないだろうか。 ○ 三歳の時に公園で出会ったあの少女以来、わたしの心をこれほどまでにつかんだ 人は、他に誰もいなかった。わたしが彼の世界の人間だったのだろうか。それとも 彼が、わたしの世界の人間だったのだろうか。わたしたちの生きてきた世界は、具 体的にはまったく異なるものだったかもしれない。しかし彼もまた、自分だけの世 界というものに住んでいる人だった。そして自分以外のそういう人に、わたしはそ れまで出会ったことがなかった。 ブライアンとわたしは、二人で一緒にいるだけでよかった。わたしたちはどちら も、自分の感じたことをことばにすることはできなかった。またどちらも、適度に 距離を置くことに敬意を払っていた。だからわたしたちは、ほとんど何も口に出さ ずに、黙って、ただ物事を感じ合っていた。 ○ このドナ・ウィリアムズとブライアンの関係は、あきらかに、お互いの心の世界が交流し合っ ていると思える。言葉は交わさないし、触れ合うこともないが、そばにいるだけで、お互いを感 じ合うことができていた。 「外側」から見れば、何もしていないと映るだろう。 だが、これは、「自閉症者は心の交流ができない」ということを意味しているのか？ 逆ではないのか？ これは、ある意味で、とても理想的な男女の恋愛の、深い心の交流の状態と同じなのではない だろうか。 僕には、どうしてもそう思える。 僕（たち）も、恋愛をしていた時、そう感じていたのではないのか？ ダニエル・タメット、キム・ピーク、ドナ・ウィリアムズ、ブライアン…。 これらの関係は、人間の初期の対（恋愛）関係を象徴しているのではないのか。 人間が、まだ言葉を十全に獲得できていないとき、「沈黙の言葉」で、お互いを深い感情の中 で、感じ合っていた段階を、長く長く続けていたのではないだろうか。 僕が甘いだけなのかもしれないが、この直感は、なかなかに捨てがたい。 （この項、了） |