〜ヒッチコックの恋愛〜

　　映画監督のアルフレッド・ヒッチコックも、アスペルガー・タイプの人物だった。

　その彼が、アルマ・レヴィルという女性に出会ったのは、二人とも二十二歳のとき

　であった。ちなみに、二人の誕生日は一日違いで、アルマの方が一日だけ年下だっ

　た。アルマはすでに映画編集の仕事で一定の評価を得ており、ヒッチコックは、パ

　ートタイムの日雇いスタッフに過ぎなかった。表情が乏しく、冷ややかなヒッチコ

　ックの態度は、映画の撮影所には不似合いで、しかも、当時から太っていたヒッチ

　コックは、着ているものといい、身のこなしといい、どこか珍妙で、もう少しでア

　ルマは噴き出すところだった。

　　日が経つにつれ、ヒッチコックのアルマに対する態度は、もっとおかしくなった

　という。アルマがいても、まるで気づかないようにふるまい、何度も顔を合わして

　いるのに、話しかけてくることもなかった。ヒッチコックから最初に話しかけてき

　たのは、ある晩、唐突に自宅にかかってきた電話でだった。新しい映画の助監督を

　務めることになり、アルマを編集に起用したいという依頼だった。プライドの高い

　ヒッチコックは、自分が彼女より高い地位に就いて初めて、仕事を要請するという

　形でアプローチを開始したのである。

　　しかし、仕事を共にするようになっても、プライベートな話やくだけた会話を交

　わすことは一切なかった。その実、ヒッチコックはアルマに首ったけで、彼女に気

　づかれないように彼女の顔を盗み見していたという。数本の映画をともに手がけ、

　ロケ地探しにドイツに出掛けた帰りの船の中で、ヒッチコックは、アルマにプロポ

　ーズする。アルマは、船酔いがひどくてそれどころではなかったが、ヒッチコック

　としては、最高の演出のつもりだった。アルマは、うめきながら首を縦に振った。

　実際に結婚したのは、ヒッチコックが監督になり、二本の映画を成功させてからで

　ある。

　　プロポーズの際に見られたような独りよがりなズレは、その後の生活でも、しば

　しば困難を生む要因にもなったが、二人の結婚は五十年以上にわたって維持される。

　ヒッチコックにとって、アルマは、仕事の同士として必要だっただけでなく、社交

　や雑事の処理を一手に引き受けてくれる、ありがたいマネージャーとして、欠くべ

　からざる存在だったのである。

　　　　　　　　○

　興味深かったので、引用しておく。

　確かに、ヒッチコックは、人間関係（恋愛関係）が苦手だったに違いない。とうてい、恋の駆

け引きのようなことはできなかった人だろう。（もちろん、僕も人のことは言えないのだが）ヒ

ッチコックにとって、アルマに出会えたことは、人生の中で、とても良いことであったに違いな

い。妻でありながら、マネージャーとしての存在にもなってくれており、ヒッチコックは、作品

作りに集中することができた。

　現実の恋愛は苦手であっても、映画（フィクシヨン）の中では、恋愛を描くことはできた。

　これは、ヒッチコックが「視覚（映像）で考える」人だったからだろう。

　ヒッチコックとアルマの関係は、とてもうまく行ったケースだと思えるが、現代ではどうだろ

う。彼女に首ったけなのに、顔を盗み見することしかできないとしたら…。不審な行動の人間と

見なされて、終わってしまうかもしれない。

（この項、了）