〜「数字」という体験〜

　　二〇〇四年三月、ぼくが円周率の二万二五一四桁まで暗唱したとき、多くの人に

　はそれが魔法のように見えたらしい。でもぼくが円周率暗唱でヨーロッパ新記録を

　達成できたのは、普通とは違うやり方で何週間にもわたって記憶する訓練を積んだ

　からだ。ぼくの頭のなかでは、数字が、入り組んだ多次元の、色のついた、質感の

　ある形として現れてくる。その形を利用して、円周率を延々と続く数字の風景とし

　て視覚化し、頭のなかの目で見て覚えることができた。それは魅力的で、見ていて

　飽きない風景だった。

　　オックスフォード大学でおこなわれた円周率のイベントで、いちばん忘れられな

　い思い出は、美しい数字の風景を追っているときに感じた深い喜びだった。次から

　次へとどこまでも続いていく数字を人前で暗唱していたぼくは、しだいに数字の流

　れに包みこまれ、瞑想状態に入っていった。πの値は、数字で表現すればまったく

　不規則なものだけれど、ぼくの頭のなかの風景は、光と色と独特な形で構成された

　リズミカルな動きなのだ。この不規則に並んだ数字から、ぼくは頭のなかのあらゆ

　る稜線をたどって進む、映像化された歌のようなものを作ることができたし、その

　稜線を通っているあいだずっと、数字が奏でる音楽を聴くことができたのだ。

　　　　　　　　　　　　○

　ダニエル・タメットは、アスペルガーで、サヴァンであり、共感覚も持っている人だ。

　円周率暗唱でヨーロッパ新記録を樹立した。

　二万桁を超える円周率を覚えたことは、とても驚異的であり、一見すると、サヴァン症候群や

アスペルガーの人というのは、人間離れした、非人間的な人たちだと思われがちだ。

　だが、ダニエル・タメットの内側から見た記憶術を読むと、この人の記憶の能力は、まぎれも

なく、「人間的な能力」であることがよくわかる。

　どこにも、非人間的な要素は、ない。

　ダニエル・タメットが、円周率を記憶するために使った能力は、自閉症者特有の「視覚（感

覚）で考える能力」を使ったものだ。それに、共感覚の要素が加わって、頭の中で、円周率の

数字を、鮮明なイメージで「見る」ことができている。

　僕たちが数字を記憶しようとすると、単なる抽象的な数字を、何の手がかりもなく「暗記」し

ようとすることしかできない。だが、ダニエル・タメットは、まるで物語を読むように、美し

い風景を見るように、きれいな音楽を聴くように、数字の並びを見たり、聞いたり、体験す

ることができるのだ。

　「記憶」というよりも、数字という世界「体験」をしている。

　これは、とても人間的な能力であり、人間的な記憶の仕方であり、コンピューターのような機

械的な「１」「０」の記憶の仕方とは、まったく違っていることがわかる。

　（この項、了）