〜「高次脳機能障害」（1）〜

　　検査はどれも、どうってことはなかった。まあ、いやだったのもひとつはあった

　けど、その話はまた後で。そりゃまあたしかに、多少は怖かった。だって、脳の活

　動が見えるように造影剤を注射するとかいうんだもの、ちょっと手に汗かくくらい

　は人情よね。脳のＣＴと、脳のＭＲＩと、頚椎のＭＲＩってのがあった。それから、

　脚もおかしかったので、両脚ともレントゲンを撮った。神経科の医者に（精神科じ

　ゃないよ。精神科はもっとあと）診てもらい、理学療法士に診てもらった。結果は

　次々と返ってきたけど、どれも正常とのことだった。頭蓋内で出血している証拠は

　ないし、構造的な異常の証拠もない。

　　「軽度」という用語の響きは魅惑的で、私はすっかりたぶらかされてしまった。

　軽度の閉鎖性頭部外傷。「軽度」というからには、「すぐに普通の生活に戻れる」

　はずではないか。ところが、「いつごろ治りますか」といくらしつこくたずねても、

　どういうわけか、先生方ははっきりと答えてくれない。

　　　　　　　　　　○

　カーラは、自閉症者ではない。定型発達で、社会的にも精力的に働くことができていた女性

だ。だが、交通事故に遭ってしまい、脳にダメージができてしまった。

　症状は、後に引用するが、とうてい社会生活ができるレベルではない。それでも、脳の検査に

よれば、「軽度」なのだ。

　脳の研究は、昔よりもずいぶん進んできたとは言えるだろう。

　だが、実際には、脳のことなど、人間は、ほとんどまだわかっていない、と言っていい。

　ハッキリした、脳の組織のダメージが確認できれば、異常だとわかるが、そうではない場合、

脳のネットワークや、対象物への集中力が持続的に働いているかどうか、などは、確認の取りよ

うがない、というのが現状なのではないだろうか。

　だが、本人は、とても苦しんでいるのだ。

　　　　　　　　　　○

　　ところが、証拠は次々と上がってくる。だれかから電話がきても、次の日になる

　ともう、だれだったか思い出せない。前回コーヒーを入れたのはいつだったか、覚

　えていない。そう、例の使用済みフィルター一三個が証拠だ。頭痛は休みなく続き、

　いっこうによくならない。しかも情け容赦のない痛さときている。ふと気がつくと

　犬たちは庭にいて、いつ出してやったのか記憶がない。洗濯機には洗剤代わりに猫

　のトイレの砂を入れてしまう。スプーンとフォークの引き出しからブラジャーが出

　てきたのには笑ったよ。

　　そうそう、嗜好もおかしくなった。これが食べたいという思いにとりつかれると、

　何がなんでも食べたくなる。それも、事故の前には別に好きでもなかったものばか

　りだ。ホワイトチョコレート、ロブスター、ホットケーキ、オートミール。ゆでた

　だけで味つけもなにもないじゃがいもの水煮缶がブームになったときは、三週間休

　まず食べつづけた。

　　　　　　　　　　　○

　　私はほとんどずっと、自分だけがスローモーションになっている感じがしていた。

　みんなのしゃべり方は速すぎる。こっちの言いたいことも、単語がするっと逃げて

　しまって思い出せない。人との会話では、ただにこにこしてやりすごした。相手の

　言っていることなんて、もうだいぶ前に追えなくなっているのに。怖いとは思わな

　かった。怖いと思えるだけの知識がなかったのだ。こうしてごまかすのも今だけの

　こと、元どおりになるまでの一時しのぎだと思っていた。

　　脚はぴくんと勝手に動くし、足先はしょっちゅう眠ってしまう。左のまぶたは垂

　れてきて、目を開けるにも右より時間がかかる。

　　　　　　　　　　　○

　　いやあ、速読訓練法のカリスマに見せてやりたかったね。事故以来初めて、久々

　に本でも読んでみようと思いたったあの日、私は最初の一ページをわずか数秒で読

　破したものだ。よし、もう一回。今度はもう少し遅く。一文めを読み、次の文も読

　んだ。それ以降は、まるで疾走するトラックの荷台ででも読んでるみたいに、それ

　も、冬じゅうスパイクタイヤに削られてぼこぼこになった春のミシガンの道路で読

　んでるみたいに、目が行から行へと飛び回る。まん中へんの単語をいくつか。あそ

　こで二語、ここで三語。文頭で一語、文末で一語。

　　　　　　　　　　　○

　記憶力が極端に悪い。気がつくと、使用済みのコーヒーフィルターが、十三個も捨ててある。

相手の話している言葉が速くて、単語が追えない。食べたいと思うと、何がなんでも食べたくな

る。じゃがいもの水煮の缶詰を、三週間食べ続けた。文章を読もうとすると、集中が続かずに、

バラバラで「読んで」しまう。

　これらは、自閉症、ＡＤＨＤ、ＬＤなどの症状として、見事に一致している。

　このことは、僕たちも、交通事故などで、脳にダメージを受けると、自閉症スペクトラムの状

態に容易に陥ることを示唆している。

　しかも、脳検査では、カーラは「異常なし」なのだ。

　自閉症者と定型発達者は、実はとても近いものだと言えるだろう。

　ニキ・リンコは、講演会で、「自分も、食べたいと思うと、何がなんでも食べたくなって

しまう」と語っていた。

　（この項、つづく）