〜ジャックの言葉〜

　　　　　　　　　　○

　　ジャックは、庭じゅうをピーターパンのように飛び回っていた。視線は決して一

　か所にとどまっておらず、体の動きは小刻みで鋭く正確だ。さらさらした金髪の長

　い前髪を風になびかせながら、ジャングルジムのてっぺんに張られた綱の上を、軽

　々とわたっていた。

　　お昼ごはんの時間がきて、子どもたちはテーブルに集められた。そこではジャッ

　クは、チョコレートをもらうために自分で「チョコレート」と言う練習を、させら

　れていた。ジャックは六歳だが、やっとことばを発するようになったばかりだ（ち

　なみにモーツァルトは、四歳になるまで話さなかったという）。そんなジャックを

　がんばらせるために、ごほうびか罰かのやり方が取られていた。一音一音しぼり出

　すようにして、ジャックは言う。「チ・オ・ク・オ・ル・エイ・ト」。するとごほ

　うびとして、小さなチョコレートがいくつか、目の前に突き出される。まるで芸を

　した犬にやるように。

　　ジャックは突然その場を逃げ出すと、わたしのいるところに走って来た。そうし

　て小さな手でわたしの手を取った。わたしは怖くてさっと血の気がひいたが、「消

　えて」しまいはしなかった。わたしの手は棒のように、ジャックが引っぱった場所

　に浮いていた。「トイレ」。ちらりとかすめるような独特の視線でわたしを見上げ

　て、ジャックは言った。そうして、トイレにつながっているのであろうドアまで、

　わたしを引っばっていった。

　　わたしの体はがくがく震え始めた。そのドアが実際どこにつながっているのか、

　まだ知らなかったのだ。見たことも、自分で入ったこともない部屋に連れていかれ

　そうになって、わたしは自分で自分のコントロールがきかなくなりそうになってい

　た。

　　ジャックのやり方があまりにもなじみ深く、昔の自分をまざまざとよみがえらせ

　るのもいけなかった。わたしはひとつも身を守るもののないまま、むき出しで放り

　出されているようだった。強烈な「感情」が、わき上がってくる。わたしは思わず、

　震える拳で口元を覆い、そのまま指の関節を噛んだ。何をしているんだ、「感情」

　は「法律違反」のはずだろうと、わたしの内側で、心の声が怒鳴っている。だがそ

　んなこともおかまいなしに、聴覚がどんどん鋭くなってくる。今やパニックの発作

　が、「大波」を起こしながらわたしの意識の戸口までやって来て、乱暴に戸をたた

　いていた。「コントロールするのよ」わたしは必死で自分に言い聞かせながら、ゆ

　っくり、リズミカルに呼吸をした。落ち着いていられるように、急に崩れて逃げ出

　してしまわないように。

　　その時、不意にジャックがわたしを見上げたのだ。「心配しないで。ぼくがずっ

　と一緒にいるから」。はっきりした、歯切れのいいなめらかさで、ジャックはそう

　言ったのである。わたしは耳を疑った。そうして、今自分が耳にしたものと、ほん

　の数分前までは単語さえきちんと言えなかったジャックの様子とのあまりの落差に、

　ショックを受けた。おかげで自分自身のパニックは、もうどこかへ消えてしまった。

　ジャックはあんなにもはっきりと、相手に向かってまっすぐに、自分をコントロー

　ルしながら話すことができたのだ。

　　パニックにならないよう、わたしがジャックに助けられたとは、胸が痛むほど皮

　肉な話に思えた。ジャックが、まわりからの励ましもチョコレートも行動療法もな

　しに、ことばを口にすることができたのは、わたしへの共感からだったのだろうか？

　それともわたしが、彼の中にため込まれていた言い回しを機械的に引き出してしま

　っただけで、「本当のジャック」は、やはりあのようには、到底話せないのだろう

　か？

　　　　　　　　　○

　ジャックは、数分前までは、単語を話すことさえ難しかったのに、ドナがパニックを起こし

そうになると、それを察知したかのように、「心配しないで。ぼくがずっと一緒にいるか

ら」と、はっきりした発音でしゃべることができた。

　とても興味深いエビソードだと思う。

　僕の学校での感覚から言うと、言葉の難しい自閉症の子は、その場の状況を察知するのは、

とてもうまいと思う。相当、よくわかっていて、その場に合った言葉を言って、驚かされるこ

とがよくある。一般的に言うと、言葉が使えないと、知能が低いと考えがちだ。でも、そんな

ことは、ない。状況を読む能力は、言葉の能力とはまったく違うものだと思う。

　ジャックは、ドナの窮地を見、そして＜察知＞して、そこに見合う言葉を発語することがで

きたのではないだろうか。それが、ジャックにとっての言葉なのだ。

　「チョコレート」の練習の場合、強制的にやらされているだけで、「状況」がまったく違っ

ている。ジャックにとっては、最初から無意味で、「なんで、こんなことやらされないとい

けないんだろう」という感じなのではないだろうか。

　（この項、了）