〜ドナのメガネ〜

　　検査室には、メグという女性が現れた。そうして、アーレン社製の色つきレンズ

　やフィルターのめがねがどのようなものかということを、説明してくれた。

　　視覚から入ってくる情報というものは、最も純粋な形では、光の一連の波動に還

　元できるそうだ。そしてその光の波動が、色に関係してくる。ところが情報処理に

　問題のある人では、きちんと処理できる量以上に、情報を取り込もうとしてしまう。

　また、情報の取り入れ方がゆっくりすぎて、その意味全体を把握できない場合もあ

　る。だがどちらの場合も、光のどの波動が欠けているのか、あるいはどの波動が情

　報処理を混乱させているのか、調べることができるというのだ。そうしてアーレン

　センターでは、さまざまな色つきレンズを通して、目に入る光の波動をコントロー

　ルし、欠けている波動を補ったり、多すぎる波動を取り除いたりして、視覚に入っ

　てくる情報が適切な形になるようにするのだという。

　　　　　　　　　　　　○

　　メグは、その上からさらに重ねるとよさそうなフィルターを、いくつかわたして

　くれた。突然、目を落としていたページの文字が、まるで違って見えた。ぴったり

　合ったフィルターの組み合わせで、周囲の何もかもが完全に変貌したのである。

　　わたしは、窓の向こうの庭を見た。これまでのように木から木へ、茂みから茂み

　へ、目を移すのではなく、一気にすべてが目に入ってくる。ひとつの完全な庭とし

　て、一枚の絵のように全部が見えるのだ。いや、それはもう「絵」以上のものだっ

　た。そこは、ひとつの「場所」だった。論理的にだけでなく、視覚的にも。そこへ、

　わたしはまっすぐ歩いていけそうだった。しかも周囲のものと「ともに」ではなく、

　周囲のものの「中を」。これまで理屈として学んでいただけのものが、今は自分の

　この目でわかる。これまでわたしは、世界にはさまざまな深さと奥行きがあって、

　自分が動くことでそれを感じることができると習ってきたが、実際にそうした深さ

　や奥行きの変化を感じたことは、一度もなかった。それが今はただ目をやるだけで、

　そうと実感できる。

　　わたしはほほえんだ。するとまた、涙が流れ出した。体も震えていた。「見える。

　全部見える」わたしは大きな声で言った。「世界全部が見える！」

　　わたしはそのまま、イアンを見た。「あ、あ、あなたの、か、顔」わたしはども

　った。「全部、くっついてる！」

　　これまで部分部分を頭の中でつなぎ合わせるようにして見てきた顔が、初めてひ

　とつのまとまりとして、見えたのである。信頼することのできる道が、行く手に突

　然ひらけたかのようだった。

　　触覚も、聴覚も、人格も、周囲に対する感覚や反応も、すべてがばらばらでしか

　なかったこれまでの世界で、断片的ではない完全なひとつのものというのは、わた

　しにとっては想像するものでしかなかった。けれどたったひとつの経路が−−視覚

　という経路が−−ひらけただけで、想像などする必要はなくなったのだ。わたしは、

　実感することができるようになったのだ。

　　　　　　　　　　　　　○

　「そうだろうと思ったわ」メグが言った。「このめがねは、あなたには必要なかっ

　たのよ」

　　知覚の問題を知らなかっためがね屋は、何もかもを近くに見えるようにすれば、

　わたしの視覚の乏しさを補えると思ったわけだ。だがわたしは、視力には何の問題

　もなかったのである。問題があったのは、目ではなくて、脳のほうだったのだ。め

　がね屋はふつう、視力の問題を扱うのであって、知覚の問題を扱うのではない。目

　の問題を扱うのであって、脳の問題を扱うのではない（だが最近では、知覚上の目

　の問題を扱うために、色彩計を使うめがね屋も出てきた)。適切な色の組み合わせを

　通して見さえすれば、わたしの視覚は、完璧だったというわけだ。

　　続いてイアンが、検査を受けた。

　　彼は夜も昼も、目を閉じていようが開けていようが、常にテレビのブラウン管に

　出るような細かい粒子の見える世界に住んでいたので、ぴったりのフィルターを見

　つけるのは、わたしの時より簡単だった。その粒子がなくなるように、合わせてい

　きさえすればよかったからだ。そうしてわたしの時と同じように、やはり奥行きや

　全体像がつかめるという、劇的な効果が現れた。その時のレンズの色は、わたしと

　は違っていたけれど。またイアンには、これまでのめがねも必要だったけれど。

　　　　　　　　　　　　○

　ドナにとって、生まれてからずっと、世界はいつも断片的で、バラバラなものだった。全体

として統一して見えたことはなかった。「人の顔」も、「眼」や「鼻」などの、部分部分しか

見えていない。想像するしかないが、そんな世界で、ずっと生きていくことは、相当大変なこ

とだったに違いない。メガネのフィルターを調整することで、世界が統一して見えるようにな

るのなら、それはいいことだと思う。

　「過剰特異性」の視覚が混乱してしまうと、こんな風に見えるのなら、自閉症者が、「嗅

覚」に頼るのも、無理のないことだと納得できる。「嗅覚」は、感覚の中では、たぶん、「全

体性」の世界を、感じやすいのだ。

　（この項、了）