私が出会ったとき、ハリーは三〇代後半の聡明な−−ＭＩＴで学んだ−−機械技

　師だった。自転車で坂を上っているとき、突然、脳動脈瘤が破裂し、両方の前頭葉

　に大量に出血し、右側はひどく損傷したが、左側はそれほどではなかった。数週間、

　昏睡状態が続き、そのあと何力月も損傷が残ったままで、回復不能に思われ、その

　あいだに絶望した妻は彼と離婚している。ついに脳神経外科を退院し、慢性疾患の

　病院であるベス・エイブラハム病院に来たとき、彼は仕事も妻も歩ける脚もなくし、

　さらに心と人格の大半も失っていた。知力はだんだんにほとんど元どおりに戻った

　が、情緒には思い障害を抱えたままだった−−生気がなく、平板で、無関心なのだ。

　自分だけでは、あるいは自分のためにはほとんど何もせず、他人がやる気にさせて

　「ゴーサイン」を出さなければ何もしなかった。

　　それでもハリーは、習慣から『サイエンティフィック・アメリカン』誌を定期購

　読していて、事故前と同じように端から端まですべての記事を読んだ。しかし読む

　ものをすべて理解しても、どの記事にも興味も驚嘆も感じない、と彼は認めている。

　そして「驚嘆」こそが、以前の人生の核だったという。

　　日刊紙も念入りに読み、すべてを理解したが、冷淡で無関心な読み方だった。周

　囲にはほかの入院患者−−興奮している人、ふさぎ込んでいる人、痛がっている人、

　あるいは（まれに）笑って喜んでいる人−−の感情やドラマがあふれ、彼らの願望、

　恐怖、希望、野心、事故、悲劇、そしてたまに歓喜がうずまいていても、彼自身は

　まったく無感動のままで、感じることができないようだった。以前のとおり礼儀正

　しく、丁寧だったが、それが本物の感情による動きではないことが感じられる。

　　しかしハリーが歌うと、突然、状況が一変した。彼はきれいなテノールの声をも

　っていて、アイルランドの歌が大好きだった。歌うときの彼は曲にふさわしいあら

　ゆる感情―−快活さ、物思い、悲痛、気品−−を示す。これには愕然とするほど驚

　かされた。というのも、ほかのときにはそんな兆しはまったく見られず、彼の情緒

　的能力は完全にだめになっていると考えられていたのだ。

　　音楽が、音楽のもつ意図や感情が、彼を「解放する」、つまり前頭葉の代用品か

　人工器官のような働きをして、彼に欠けていると思われる感情のメカニズムを提供

　しているかのようだった。歌っているあいだは人が変わったかのように見えるが、

　歌が終わると数秒で元に戻り、再びうつろで無関心で生気のない状態になる。

　　　　　　　　　　　〇

　ハリーは脳出血のダメージによって、右脳に出血し、知力は回復したが、「情動」が復活しな

かった。何をしても、「生気がなく、平板で、無関心」。雑誌の記事はすべて読み、理解はでき

るが、驚くことはない。

　だが、歌を歌い始めると、人が変わったようになり、ハリーは、生き生きとした歌を歌うこと

ができる。

　そして、歌い終わると、再び、無関心の状態に戻ったと言う。

　これはどういうことなのか。

　脳出血によって、感情が失われたように見えても、実際は違っている。感情と脳との回路が失

われただけであり、歌を歌う回路によって、再び感情を表現することができる。歌を歌わない

と、再び、回路は閉ざされてしまう。

　この考えは、ジュリアン・ジェインズの考え方とも無矛盾に成り立つように思われる。

　昔は、「歌」によって感情と結びつく回路があった、と言えるのではないだろうか。

　（この項、了）