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　　私はフィリップに、右手をボックスの鏡の右側にさしこんで、左手（幻肢）

　が左側にあると想像してみてほしいと言った。そして「右腕と左腕を同時に動

　かしてもらいたい」と説明した。

　「そんなこと、できません。右腕は動かせるけど、左腕は固まっています。毎

　朝起きると動かそうとするんですが。妙な位置にあるので、動かせば痛みがお

　さまるような気がするもので」。彼は見えない腕を見おろした。「でも、ぴく

　ともしたためしがないんです」

　「そうですか。でも、とにかくやってみてください」

　　フィリップは体をまわして肩の向きを変え、動かない幻肢をボックスのなか

　に「差し入れた」。それから右手を鏡のもう片側に入れて、同調運動をしよう

　とした。鏡をのぞきこんだ彼は息をとめ、叫んだ。「何てことだ！　信じられ

　ない。驚きです」。彼は子どものように跳びはねた。「左腕が生き返りました。

　昔に戻ったようです。昔の記憶がどっと流れ込んできたんです。腕が動かせま

　す。肘が動いているのを感じます。手首もです。すべてもとのように動きます」

　　彼が少し落ちつきを取り戻すのを待って、私は言った。「今度は、目を閉じ

　てやってみてください」

　「おや」。彼はがっかりして言った。「また固まってしまった。右手が動いて

　いるのは感じますが、幻肢のほうはまったく動きません」

　「目を開けてください」

　「ああ。また動きます」

　　フィリップの場合は、ふつう幻肢を動かしている神経回路が一時的に抑制あ

　るいはブロックされていて、視覚のフィードバックがそのブロックを打破する

　らしい。しかしもっと驚異的なのは、一〇年間一度も感じられなかった、腕を

　動かしたときの体の感覚が即座によみがえったことだ。

　　　　　　　　　　○　　

　　そこでフィリップは箱を家に持って帰った。一週間後、彼に電話をした。「

　どうですか」「いやあ、おもしろいですよ、先生。毎日一〇分間使っています。

　手を差し込んで、ふりまわしてどんな感じかみています。ガールフレンドと一

　緒にボックスで遊んでいるんですが、とても楽しいですよ。でも目を閉じると、

　やっぱりだめです。それに鏡を使わないとだめです。幻肢が動くようになるの

　を期待していらっしゃるのはわかっていますが、鏡なしではだめですね」

　　それからさらに三週間たって、フィリップから電話がかかってきた。ひどく

　興奮して勢い込んでいた。

　「先生、なくなりました！」

　「何がなくなったんですか？」（私は彼が鏡の箱をなくしたのかと思った。）

　「幻肢がなくなったんです」

　「何ですって？」

　「私の幻の腕ですよ。一○年来の。あれがもうないんです。幻の指と掌だけ、

　肩からぶら下がっているんです！」

　　私はとっさに、「しまった！」と思った。人の身体イメージを永久的に変え

　てしまったらしい。彼の精神状態や幸福にどんな影響をあたえるだろう。「フ

　ィリップ−−それで、困ってますか？」

　「いや、いや、全然。反対ですよ。いつも肘にひどい痛みがあると話しました

　よね。週に数回、痛みに悩まされると。それがいまは、肘がなくなったので、

　痛みもないんです。でもまだ、肩から指がぶらさがっていて、その指が痛いん

　です」。彼はここで、話をのみこませようとするように、ちょっと間をおいた。

　「あいにく、あの鏡の箱はもう役に立たないんです。指の位置が高すぎるので。

　デザインを変えて、指がなくなるようにしてもらえませんか？」。フィリップ

　は私のことを手品師のように思っているらしい。

　　私はフィリップの頼みにうまく応えられるかどうか自信はなかったが、医学

　の歴史上、幻肢の「切断術」（！）に成功した症例はおそらくこれが初めてだ

　ろうという認識はあった。

　　　　　　　　　　○

　この話は、よほど印象的だったらしく、マンガの『Ｄr．コトー診療所』でも採用されてい

た。

　腕が切断されて、そのまま幻肢が固定され、十年来、幻肢の痛みに悩まされていた人が、鏡

を使って、右腕の鏡像が、視覚的に左腕として映るようにした装置によって、再び(？)、幻肢

が動かせるようになり、最終的には、「腕」が消失してしまい。指が、肩から生えている感覚

になってしまった。そして、「幻の腕」がなくなってしまったために、「腕の痛み」もなくな

った。

　驚異的なことだが(すべての患者の幻肢がこうなるわけではないらしい)、これはどういうこ

となのだろうか。

　ラマチャンドランによれば、人間の身体(筋肉や内臓)は、無意識の信号を絶えず脳に送って

いる。脳はそれをチェックしている。

　患者は、腕を切断されているので、筋肉からの信号は送られない。脳には、左腕がない、と

いうことになる。しかし、視覚的な情報では、脳に「腕はある」という情報として送られる。

　これでは、脳は混乱してしまう。その結果、脳は、筋肉からの信号を優先させた。視覚的な

「イメージ」の方を否認したために、腕が「切断」され、肩から先に指の感覚が残った。

　ラマチャンドランの説は、これはこれで、筋が通っているのではないだろうか。

　僕たちの身体の内臓や筋肉は、絶えず、信号を脳に送っていて、信号をフィードバックする

ことによって、身体意識を、絶えず＜現在＞として作っていると言えるかもしれない。茂木健

一郎流に言えば、そうやって、絶えず、身体を＜仮装＞している。

　それでは、なぜ、「幻肢」は成立するのか。

　これは、僕の想像だが、腕を切断することで、筋肉からの信号が途切れることになる。脳は

それを、(そんなことはありえない)として受容することができない。それで、腕のイメージだ

けが脳に残る。腕が存在しているのだから、痛むのは当然だ、ということで、「痛み」の信号

も発せられる。、ということになるだろうか。

　いずれにせよ、人間の身体意識は、統一的で恒常的なものだ、というよりも、それどころか

実際には、とても曖昧なものだと言えるのではないだろうか。

　（この項、了）