（※イタール医師は、アヴェロンの野生児（ヴィクトール）を引き取り、教育を施そうとす

る。苦労を重ねて、何とか、単語で示した品物を彼の部屋から持って来させることができるよ

うになった。その確認をしようとして、彼の部屋を閉め、自分の部屋の中から同じものを見つ

け出さそうとする。）

　　　　　　　　　　○

　24　ある日ヴィクトールを連れて来，いつものように，彼の単語表の上に私が指し

　示した品物を彼の部屋から持って来させようとしたが，そのとき厳重に鍵をかけて，

　鍵は眼につかない所へ隠して置こうと思いついた．そこで準備をすませ，彼のいる

　私の部屋へ引き返した．そしてリストを拡げて，私の部屋にもあるものを注意して

　要求した．彼はすぐに出かけて行ったが，扉に鍵がかかっていることに気がつき，

　鍵をくまなく探してから私の所へやって来た．そして扉の開かないことを私に知ら

　せるかのように手を取って扉の方へ連れて行った．私はびっくりしたような風をし，

　あちこち鍵を探し，力まかせに扉を開こうとさえした．しかし努力は空しく，彼を

　連れて私の書斎へ帰り同じ言葉をもう一度見せてから手真似で私の部屋に同じもの

　が見つけられないかとたずねた．示された言葉は，棒・鞴・ブラシ・ガラス・小刀

　などであった．これらはすべて私の部屋のなかにすぐ見つかるように散らばってい

　た．それなのにヴィクトールはそれに目をつけて手に取ろうとはしなかった．そこ

　でこれらを全部机の上に持って来てよく見せ，順々に名前を示しては，１つずつ渡

　させようとしたが駄目であった．そこで私はまた別の方法をとった．すなわち鋏で

　物の名前をきり離し１つ１つ彼の手に入れられるようにした．こんな風に最初のや

　り方に帰ったならば，実物の上に名前をのせるだろうと思った．しかしこれも駄目

　であった．何も弁別できないというよりは，物と記号とを連関させることのできな

　い私の生徒を見ていると名状し難い悲しみにおそわれた．何ともいえない呆然とし

　た様子で，何の意味も持たない文字の上にうつろな眼をさ迷わせていた．私は焦躁

　と失望の重みで沈んで行くように感じた．

　　私は部屋の隅へ行き，腰をおろし，奇妙な運命からこんな悲しい変わり方をした

　不幸な生き物についてしみじみ考えた．明らかな白痴として孤児院へ送らねばなら

　ないか，あるいは前代未聞の努力をして，彼を大いに幸福にもしない教育を施さね

　ばならぬのかのいずれかだった．私は彼が解りでもするかのように心から苦悩して

　「可哀相な奴！　私の努力も無駄だったし，お前の骨折りも実を結ばなかったのだ

　から，また森へ帰って原始生活をおしよ．でもひょっとまたこの社会にたよろうと

　望んでも，ここにはお前の入る余地はないのだから，ビセートルへ行って不幸の償

　いを！　惨めに無為に死ぬがよかろう．」と叫んだ．

　　その知力を充分知らなかったならば，私のいったことはすっかり彼に理解された

　と信じたであろう．なぜならば私がいい終わるや否や，彼の胸はぐっと一杯になり，

　眼は閉じられ，激しい悲しみのしるしとして涙がとじた眼からとめどもなく流れ出

　るのを私は見たから．　

　　　　　　　　　　　○

　僕には、イタール医師の方が間違っているとしか思えない。

　何が間違っているのか。

　イタール医師の「西欧文明優位の人間観」が、間違っているのだ。

　イタール医師は、無意識のうちに、「西欧（善）」「未開（悪）」という人間観で、「野生

児」を見ている。ヴィクトールは、「改善」されるべき、可哀そうな「未開」の人間だと見な

されている。それはまったくの「偏見」というものだ。

　もちろん、現代の視点から、イタール医師を批判することには何の意味もない。ただ、「野

生児」（『アヴェロンの野生児』『狼に育てられた子』）の記述は、現代から見れば、もっと

いろんな読み方が可能になるのではないか、と僕には思える。

　　　　　　　　　　　　○

　イタール医師は、言葉を知らなかったヴィクトールに言葉を教えるために、単語のカードを

作り、その言葉の意味する道具（棒・鞴・ブラシ・ガラス・小刀など）しているものを、ヴィ

クトールの部屋まで行って取ってくる練習をさせた。それが完璧にできるようになったので、

同じものを、彼の部屋ではなく、自分の部屋から見つけるように指示したが、できなかったの

で、教育に無力を感じ、未開なヴィクトールに対して、激怒している。

　ヴィクトールの、この行動自体は、現代の養護学校の生徒で考えれば、普通に起こりえるこ

とで、何も感情的になるようなケースではない。ましてや、ヴィクトールが、自閉的傾向か、

知的な障害があったために幼くして遺棄された子供で、教育を受けずに成長したのであれば、

ますますありえることだ。

　ヴィクトールは、単語のカードと、彼の部屋の道具とを、一対一対応させて覚えたのであ

り、そのために、イタール医師の部屋の道具と対応させることができなかったに過ぎないと考

えられる。いわゆる「一般化」が難しかっただけだ。

　イタール医師が激怒したために、ヴィクトールは、自分が失敗したとを知り、泣きだしてい

る。これは、現在の「状況」をヴィクトールがきちんと察知することができている証拠であ

り、正常な反応だと言っていい。　

　（この項、了）