「ライアル・ワトソン」を読む。(追加)


79、ヘレン・ケラーの嗅覚

           ○

  ヘレン・ケラーは謎の病に倒れ、二歳の誕生日を迎える前に、盲目にして聾唖と

 なった。カスパー・ハウザーの場合にも似た感覚の拘束状態におかれた彼女は、六

 歳になってもまだ荒らくれたままで、蹴ったり呟みついたり、手で物を食べたりし

 ていた。しかし、熱心な教師の助けを得て、七歳からの彼女は、匂いと触覚と味に

 導かれて、のちに「経験の境界領域」と呼ぶことになる世界へと踏み出していく。

 彼女は「匂いが潮の満ち引きのように、波をなして満ちたり引いたり、ふたたび満

 ちたりしながら、広い世界を目に見えない甘やかさで満たしていく」のを嗅ぎとっ

 ていた。彼女は「過ぎ去った夏の記憶を、遠く離れたところで実っている穀物畑の

 記憶を、突然呼び出してくる匂い」によってノスタルジアが呼び覚まされるのを感

 じた。その結果、彼女は、目が見えるのに事実上嗅覚がないのに等しい一般の人々

 に憐れみを覚えるようになったのだった。

  彼女は嵐の到来を、視覚的な徴候があらわれる何時間も前から、「期待感の脈動、

 かすかな震え、鼻の中に感じる濃密さの感覚」によって感じとることができた。彼

 女はまた、風景を匂いの配置によって描き出すことができ、干し草畑と納屋とスギ

 の林を正しい場所に位置づけることができた。大工と鍛冶屋、画家、薬屋をそれぞ

 れの商売道具の匂いによって識別できたし、「人がある場所から別の場所に素早く

 移動したとき、私はその人がそれまでいた場所を匂いによって感じとる−−台所に

 いたのか、庭にいたのか、病室にいたのかわかる」のだった。

  彼女は他の人と会うときにこそ、もっとも活発な反応を示した。「親密な友人な

 ら、たとえ何年間も会わなかったとしても、私はその人の匂いを、アフリカのど真

 ん中でも識別できると思う。」その彼女も、自分の匂いの感覚をことばにするのに

 私たちと同じくらい困難を感じて、次のように認めている−−

   人によっては曖昧な、ふわふわとした実質的でない匂いをもっていて、それ

  を特定しようとする努力をことごとくかわして逃げていってしまうような場合

  がある。それは私の嗅覚体験における幻影のようなもので、そのような人を生

  き生きとした面白い人と感じることはめったにない。それに対して、強烈な匂

  いをもっている人は多くの場合、非常なヴァイタリティとエネルギーと、心の

  強さをもっている。

(『匂いの記憶』 ライアル・ワトソン)

          ○  

 ライアル・ワトソンの言うとおり、ヘレン・ケラーの能力は、驚異的だ。

 彼女は、嗅覚によって、普通は視覚で行っている風景の映像や、空間配置を把握することが

できていた。また、嵐の到来を、視覚よりも、はるかに以前から感じ取ることができたし、一

度会った人間を、嗅覚で覚えていて、識別したり、その人の職業も嗅覚で嗅ぎ分けることがで

きた。その上、その人間のヴァイタリティーや心のエネルギーなども、匂いによって認識する

ことができた。彼女の能力は、「視覚以上」だったと言えるだろう。

 だが、ヘレン・ケラーの特異な能力は、「奇跡の人」として扱ってしまうと、それだけ

で終わってしまう。

 実際には、自閉症者の感覚過敏の世界では、普通に起こりえることだと考えるべきだ。

 自閉症者は、視覚や聴覚が閉ざされているわけではないが、感覚が混乱しているために、触

覚や嗅覚に頼って世界を感受している。

 人が来ると、ヘレン・ケラーのように、匂いを嗅ぐ子がいる。匂いで、人間を判断した方が

安心するのだ。

 ライアル・ワトソンは、ヘレン・ケラーが「嵐の到来」を予感するのを「期待感の脈動、か

すかな震え、鼻の中に感じる濃密さの感覚」と書いているのを引用しているが、自閉症者の

記述(たとえば『僕の妻はエイリアン』(泉流星))を見る限りでは、肌の感覚(触覚)が、

気圧の変異を感じ取っていることがありえると思われる。ヘレン・ケラーも、皮膚感覚で気圧

の変化を感じ取っていたのかもしれない。

(この項、了)

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