○

　　彼は今窮地に退いこまれ、神に祈って助けけを求めた。そうやって祈っていると、

　神の助けがありそうな気がした。

　　やがて突然、彼の心に答がひらめいた。

　「わたしの犬！　そうだ、サンターナ。わたしの犬がいる！」

　　彼はありったけの集中力をもって、犬をここに呼び寄せることにし、自分の考え

　をその一点に集めた。

　��おお、サンターナ。わたしの犬よ！　助けにきてくれ！��

　　彼はその言葉と、その思いを心にくりかえした。

　″忠実なわたしの犬、サンターナよ！　きてくれ！　きてくれ！　きてくれ！〃

　　ショーバル大尉は、無言のまま祈り、必死になって呼びかけをつづけた。その心

　の思いが、どのようにして伝えられたかということを説明できる人がいるだろうか？

　″今までに一度もしくじったことがないわたしの犬よ！　こい、こい、きてくれ！

　今、わたしは、今までの生涯に一度もなかったくらい、お前を必要としているのだ！

　おお、サンターナ、きてくれ。わたしの仲間をここへ案内してきてくれ！〃

　　インデイアンの魔術師は、おもしろいことを言っている。人間はほんとうに助け

　を求めて叫ぶとき、じっさいの叫び声がとどく以上に遠くへ達する力を生みだすこ

　とができるというのだ。

　　インディアンばかりでなく、ほかの賢人たちも、わたしたちに同じことを教えて

　いる。ショーバル大尉は本能的にそのことを知っていて、今、再び心に叫んだのだ

　った。

　「おお、サンターナ。きてくれ！」

　　　　　　　　　　　　○

　　十六キロほど離れたところに、しっかり防備をかためたフランス軍のキャンプが

　あった。サンターナはそこに、他の犬といっしょにつながれていた。そしてその犬

　の周囲には、軍用犬係の兵士たちが、くつろいでいた。

　　ここの兵士は、敵を迎えうてるよう、十分武装し、また友軍に負傷者がでた場合、

　いつでも手当てできるように、装備されていた。だが、今のところ、たいていの犬

　は、うとうと眠っていた。

　　そのキャンプには、少なくとも十数頭の犬がいた。いずれもよく訓練された鋭敏

　な犬だ。それに勇敢で忠実だった。だが、みんな身じろぎもせずに、横たわってい

　た。

　　ところがその犬の中で一頭、無言の電信を受けとったものがいた。犬はいつも鼻

　で通信を受ける。ところが今その通信は、臭いのように、鼻を通じてやってきたも

　のではなかった。それがどうやって送られたものかはわからない。母なる大地を通

　してか、それとも空中のエーテルの震動を伝わってなのかあるいは、はるか遠くの

　夜空にまたたく星からなのか、そのことについては、まったくわからない。

　　わたし達にわかっていることは、ただひとつ−−それはたしかにやってきた、と

　いうことだけだ。

　　そしてサンターナは、むっくりと起きあがり、そよ風の臭いを嗅いだ。それから

　くんくん鳴きだした。係の兵士が起きるまで、サンターナは、くんくん鳴きつづけ

　た。

　　兵士は起きてきて、大きな黒犬の頭に手をおいて言った。

　「どうした、サンターナ？　なにを嗅ぎつけたのだ？」

　　それから兵士は、犬の鎖を解いた。これは賢明な処置だった。犬は自由にされて、

　自分が聞きつけた無言の呼び声をたどっていくことができるようになったからだ。

　　しかしサンターナは、す早く荷物棚のところへ行き、ふるえ声でくんくんと鳴き

　ながら、小さな袋を鼻で指し示した。それは以前、ほかの兵隊が苦難におちいった

　時、その兵隊を助けるために運んでいったもので、中は救急薬がはいっていた。

　　　　　　　　　　○

　この驚異的な能力はどういうことだろう？

　確実に「フォベットの奇跡」、以上だ。

　少なくとも、「目で命令を読み取る」能力（「過剰特異性の目」）でないことは確かだ。

　神秘的な能力でないならば、理由があるはずだ。

　僕が知っている限りでは、ライアル・ワトソンの『匂いの記憶』は、「サンターナの奇

跡」を説明できる唯一の本だ。

　　　　　　　　　　○

　　顔面がぺちゃんこになっているせいで慢性的な呼吸障害をかかえている一部の品

　種を別にすると、飼いイヌはいずれも非常に嗅覚が鋭い。彼らの世界はいくつもの

　匂いの層からなる豊潤な場所で、われわれの世界とは大いに異なっており、その世

　界を一番よく感得している種類のイヌは、長く突き出した鼻先をしていて、その内

　部には、われわれの切手サイズの嗅覚細胞組織の五十乗にもおよぶ面積の組織が渦

　巻状になってつまっている。

　　　　　（略）

　…ヴァーモント州ベニントンで記録された例では、あるブラッドハウンドは八日前

　の匂いの痕跡をたどって八百屋と銀行に入り、地面の匂いと植木やビルディングと

　いった高い位置に残された匂いを嗅ぎあてながら混雑した通りをいくついくつも横

　断して、ついに町のバス・ターミナルの外のベンチにたどりついたという。行方不

　明になっていた男があとで語ったところでは、たしかにカリフォルニア行きのバス

　に乗りこむ前にそのベンチにしばらくすわっていたというのだった。

　　ブラッドハウンドにとって、裸のサルである私たちは御しやすい相手なのだ。毎

　日私たちは四千万枚の皮膚のかけらを落としていき、そのそれぞれが特徴的な匂い

　をもったバクテリアの宝庫を飼っているのだから。この目には見えないが匂いをた

　たえたフケのようなものが私たちの背後に常時、臭気の航跡を残していっているの

　であり、それがブラッドハウンドにとってはネオンサインのように際立って感じら

　れるのだ。

　　　　　　　　　　○

　イヌは、まったく違う仕方で、この世界を感受しているに違いない。「過剰特異性の目」・

「過剰特異性の鼻」で、イヌにとっての世界は、構成されている。

　もちろん、これでも、サンターナが、ショーバルの位置を正確に知ったことは理解できて

も、どうして、ショーバルが生命の危機に陥り、助けを求めているのが分かったのか、その理

屈はわからない。

　少なくとも、「過剰特異性の鼻」プラス、犬の「人間の心を読み取る」能力の組み合わせで

起きた奇跡のように思われる。

　ショーバルとサンターナの信頼関係があって初めて成し遂げられた奇跡だったと、僕には思

われる。少なくとも、この奇跡を簡単に、「動物文学の奇跡」として片付けてしまうことは意

味のないことだと思われる。

　　　　　　　　　　○

　また、別のことも言える。

　嗅覚の過敏な自閉症の人たちが、確実にいる。人間を匂いで「識別」しているのではないか

と思える子たちもいる。

　「過剰特異性の目」を持ち、「過剰特異性の鼻」を持つ、自閉症者にとって、この世界

が、僕たちに感じされているものとは違う世界に見えたとしても、まったく不思議なことでは

ない。