松田さんは、雪と氷の中を、装備を失い、食糧を失い、水は道ばたの雪どけ水をす

　するだけで、ただ一人、七五〇〇メートルの山から、二九〇〇メートルのふもとの村

　まで下山してきたのである。寒さと疲労と空腹で、ほとんど倒れそうになりながら、

　一〇〇メートル歩いては二十分休み、また一〇〇メートル歩いては三十分休みという

　ようにして、十八日間歩きつづけた。夜は、その辺の岩陰で、そのままゴロリと横に

　なり、零下一〇度ないし二〇度という寒さの中で、いつ凍死してもおかしくない状態

　で寝た。両手両足が凍傷にやられて無感覚になり、ついにはブーツが脱げ、フェルト

　製のインナーブーツもボロボロになり、片足はそれも脱げて裸足になってしまった。

　最後は立ち上がることもできず、四つんばいになって、這ったまま下山した。数メー

　トル這っては、その場に倒れ伏し、しばらく休んではまた死力をふりしぼって四つん

　ばいになって這うという歩みだった。ついには急性胃穿孔から腹膜炎を起こし、敗血

　症も起こして、村人に発見されたときは死ぬ寸前だった。すぐに腹膜炎の手術を受け、

　そのあと、凍傷にかかった両手の指を全部切断、両足も膝から下を切断するという大

　手術を受けて、本当に奇跡としか思えない生還をとげたのである。

　　その過程で、松田さんは幻聴幻覚にはじまり体外離脱、奇怪な悪夢と幻想など、実

　にさまざまの体験をしている。その話を聞いていくと、極限状態で人間の精神にどん

　な変化が起こるのかがわかってくる。

　　　　　　　　　〇

　登山家・松田宏也さんは、中国の山で遭難し、絶望視されていたが、十八日後に、奇跡的に

救助された。その体験を立花隆が書き留めているが、よく生きて生還できたなと言えるくらい

の、壮絶なものだ。

　長いので、何回かに分けて引用しておく。

　肉体が極限まで疲労し、まず、幻聴がやってきたと言う。

　　　　　　　　　〇

　　はじめに起きたのは幻聴だった。肉体が疲労の極に達してから、耳の中で音楽が鳴

　りはじめた。それはクラシックであったり、ロックであったり、歌謡曲であったりし

　たが、途絶えることなく鳴りつづけた。そのうち、いろんな自然音が意味をもって聞

　こえるようになった。

　「たとえば、四〇〇〇メートル以下までおりてくると鳥の声が聞こえるわけです。そ

　の鳴き声が、リーベン、リーベンと聞こえるわけです。リーベンというのは中国語で

　は日本という意味なんです。それを聞いて、そうか鳥もオレのことを知ってるんだな

　と思う。それから、風で木が鳴るでしょう。それがヘリコプターの音に聞こえるんで

　す。『オレを助けにヘリコプターが来た。あっ、来た、来た』と、すぐそこまでヘリ

　コプターが来たように聞こえるんです。それから、氷河がくずれる音が、ガチャーン

　と聞こえてくると、それが工事現場の音に聞こえるんです。すぐそこに工事現場があ

　って、そこで人が沢山働いているような気がするんです。あるいは、川の流れが聞こ

　えるでしょう。そうすると、川を船がさかのぼって自分を助けにきたと思うんですね。

　どれもこれも、そういう音みたいに聞こえるというんじゃなくて、それそのものに聞

　こえるんです。イメージは見えてこないんですが、もう完全にそれだと思ってしまう

　んです。ほんとにリアルなんです。ヘリコプターみたいな音じゃなくて、よく知って

　いる現実のヘリコプターの音そのものなんです」

　　まず、現実の断片が幻覚をもたらす。次いで、現実と非現実の境界が曖昧になり、

　やがて両者は全く混同されてしまうのである。

　　　　　　　　　　〇

　松田さんが最初に体験したのは、幻聴だが、統合失調症者が、最初に体験するのも、幻聴だ

と言われている。この一致は興味深いのではないだろうか。

　そして、幻聴は、風の音が「ヘリコプターみたいな音」に聞こえるのではなくて、リアルに

ヘリコプターそのものの音に聞こえるのだと言う。これもとても興味深い。

　　　　　　　　　　〇

　　こういった幻覚現象に次いで起きたのが、一種の体外離脱だった。

　　「それからもう一人の自分があらわれたんです。それが自分のすぐ前にいるんです。

　そして、もう力つきて倒れそうなぼくを叱りつけて、歩け、歩け、と命令するんです。

　そのときもう、ぼくの足は靴は脱げてボロボロになって、凍傷で痛くて痛くて、耐え

　きれない痛みに耐えてやっとの思いで歩いているんです。もうだめだ、もう動けない

　から休もうと思っても、そのもう一人の自分が絶対に許してくれないんです。歩かな

　いと助からない、だから歩け、がんばって歩け、とものすごく強い調子で命令するん

　です」

　　−−そのもう一人の自分というのは、姿はあるんですか。目の前に像としてあらわ

　　れてくるんですか。

　「いえ、姿は何もないんです。でもそこにいるという実在感は明確にあるんです。疑

　いの余地もなく、目の前ななめ上一メートルくらいのところにいるんです」

　　−−その、歩け歩けというのは、ことばとして聞こえてくるんですか。

　「聞こえてくるんです。でも音声として耳から聞こえてくるわけじゃなくて、頭の中

　に直接聞こえてくるわけです。」

　　　　　　　　　　〇

　次に、もう一人の自分があらわれた。

　姿は見えないのだが、一メートルの斜め前のところにいる、ということは実感としてわかる

のだと言う。声は、言葉として聞こえてくるのだが、音声として聞こえてくるのではなく、頭

の中に直接聞こえてくる。ものすごい調子で、命令してきた、と。

　統合失調症者も、幻聴が聞こえると、まったくそれに抗うことはできないと言われている。

その声に命令されると、従ってしまうのだと言う。松田さんの体験もそれとよく似ている。

　この声は、肉体の疲労が極限にまで達している状態であり、意識（左脳）も極限まで衰退し

ている状態であり、そこで声は、右脳から聞こえてきたのではないだろうか。

　この状態は、ジュリアン・ジェインズ（『神々の沈黙』）の言う「二分心」の状態によく似

ている。

（この項、続く）