17歳でエイズに感染し、34歳で心臓移植手術を受ける−−パリに住む女優シャル

　ロット・ヴァランドレイのノンフィクション（邦題『見知らぬ心臓』マガジンハウ

　ス刊）が、世界的なベストセラーとなっています。

　　16歳で、ベルリン国際映画祭で女優賞を受賞した彼女は翌年、幸福の絶頂から一

　転、エイズに感染していることを知らされます。しかし、抗エイズ薬ＡＺＴの登場

　で一命を取り留めます。そして、今度はその副作用で、心臓移植治療を受けること

　になります。これだけでも十分信じられない人生なのですが、この彼女にさらに、

　信じられないことが起こります。

　　移植手術を受けてちょうど２年が経過した日、彼女は突然、悪夢に苛まれるよう

　になります。自動車を猛スピードで運転し、事故を起こして死んでしまう夢です。

　　数々の偶然から、彼女は、自分が移植手術を受けた病院で、同じ日に自動車事故

　で脳死状態となった若い女性の臓器摘出術が行われた事実（その日、パリで行われ

　た心臓移植手術は彼女の１件しかなかった）を知ることになります。

　　もちろん、ドナー情報の秘匿義務から、彼女に移植された心臓が交通事故を起こ

　した女性のものかどうかは、彼女が確認することはできません。しかし。なんと彼

　女は、自分に心臓を提供した女性の夫と親しい関係になり、自分の嗜好がその女性

　に似てきていることがわかったと語っています。

　　日々の生活のなかで、それぞれの臓器はそれぞれに考えています。その思考は、

　神経を介して脳に伝えられ、他の臓器に影響を及ぼすとお話ししました。このエピ

　ソードが物語ることは、臓器は臓器自身が考えたことを記憶しているということで

　す。

　　この本で、私が医学的に大変興味を持ったことがあります。それは、移植された

　臓器の変化です。

　　彼女に移植された心臓は、その後、拒絶反応を抑えるための薬の副作用で心筋梗

　塞を起こします。通常、心筋梗塞を起こすと、人間はそれまで経験したことのない

　激烈な胸部の痛みを感じます。ところが、心臓移植を受けた患者の場合、その後、

　心筋梗塞を起こしても、痛みを感じるケースは３％に過ぎません。この事実は、こ

　れまで私がお話ししてきた、臓器の気持ちを伝える神経の大切さを如実に物語って

　います。

　　外科医は手術の際、切断した血管はていねいにつなぎ直します。そうしないと、

　血液不足となり、臓器は死んでしまうからです。しかし、血管と同じぐらい密に張

　り巡らされている神経は、切断後に放置されます。

　　心臓移植患者が心筋梗塞の痛みを感じないのは、心臓を支配する神経が切断され

　ているために、心臓の痛みが脳に伝わらないからです。

　　しかし、彼女は心筋梗塞を起こした時、激烈な痛みを感じました。つまり、切断

　された神経は再生して、移植心臓に辿り着いていたことになります。移植された心

　臓は、自分の記憶を伝えるために、神経を手繰り寄せたのです。だから、彼女の脳

　は、移植された臓器の記憶を感じ取れたのです。

　　彼女が自動車事故の夢を見始めたのが、手術後２年。切断された神経が再生して

　機能するには妥当な時間です。彼女の体験は、医学的に理に適っています。

　　　　　　　　　　　〇

　『見知らぬ心臓』は、とても面白く読んだ記憶がある。

　心臓移植を受けたシャルロットは、やがて、自動車事故の夢に苛まれるが、やがて、心臓の

元の身体の女性が、交通事故で死んでいることを知る。そして、その亡くなった女性の夫と恋

愛関係に陥ったと言う。

　伊藤裕は、少なくとも、シャルロットの経験は、医学的には理に適っていると言う。

　心臓移植をしても、神経まではつながれないから、心臓麻痺を起こしても痛みを感じること

はない。だが、３パーセントくらいは、痛みを感じる人がいる。それは、心臓が切断された神

経を再生して、身体の神経と結びついたのだ。手術後の２年という時間は、神経が再生して機

能する時間としては、妥当な時間である、と。

　僕には、医学的なことはわからないと言う他はないが、だが、臓器は独立して生きているわ

けではなく、それぞれが神経で繋がり合い、影響し合いながら生きているとしたら、心臓の＜

記憶＞が、神経が再生されることで＜接続＞して、身体に影響を及ぼすことはありえるのでは

ないだろうか。

（この項、了）