て、いつもの通りに海沿いの道を走っていると、急に地面が揺れました。地震です。 陽太さんは慌てました。歳が若く、社会人になってからそれほど時間がたっていな い陽太さんにとって、忘れられないおばあちゃんの言葉がありました。 「地面が揺れたら、すぐに高いところに行け。他の者など何もかまうな。すぐに海 が襲ってくるでのぉ」 そのおばあちゃんは、当時すでに（震災の二年前）亡くなっていました。しかし、 陽太さんの心の中には、いつもおばあちゃんの教えがありました。まだ独身の陽太 さんにとって、そのおばあちゃんに曾孫の顔を見せられなかったことは心残りです が、それでも、祥月命日には墓参りを欠かしませんでした。それほどおばあちゃん が、陽太さんの中に生きていたのです。 「すぐ高いところに行かなきゃ」 しかし、海沿いの一本道で山側に曲がる道などは見えませんでした。事故でもあ ったのか、道治いに車を寄せて様子を見ている人がいるのか、渋滞が発生し、車は まったく動かなくなってしまいました。 「このままではまずい」 陽太さんは、少し手前に山側に曲がる道があったことを思いだし、かなり強引に ∪ターンをしてアクセルを踏みました。 まだ津波が来る気配はない。津波がある場合、地震の後、大きく水が引くという。 そしてそのあと一気に海が襲ってくる。おばあちゃんは子供のころの話として、そ んなことを教えてくれた。それが本当なら、まだ水が引いている感じはない。それ でも、高台に避難したほうがいいに決まっている。陽太さんは焦りました。 「そこを右じゃ」 不意に、陽太さんの耳元で、厳しい、でもどこか懐かしい声がした。陽太さんは 驚きましたが、深く考える間もなく、そのまま右にハンドルを切りました。 「次を左」「そして右じゃ」 声は耳の中で、カーナビとは違う音質でずっと響いていました。陽太さんはどう してもその声に抗うことができず、いわれるがまま、ハンドルを操作しました。声 に導かれた道路には、渋滞がなく、車や人の姿もまばら。思ったよりも早く高台に つくことができました。高台が近づくころには、耳元の声もしなくなっていました。 少し広いスペースに車を止めて振り返ってみると、眼下には今までと全然違う光景 が広がっていたのです。ほんの少し前まで走っていた海沿いの道は完全に海中に没 し、走ってきた途中の家の屋根も、やっと見えるくらいになっていたのです。そし て第二波と思しき黒くて高い水の壁が、すでに水没Lた街をふたたび飲み込もうとし ていたところでした。 「助かった」 陽太さんはそう思った、しかしもう一つ不思議だったことは、 「あの声はなんだったのか」 ということでした。おばあちゃんの声に似ていたようで、自分の知っているおば あちゃんの声ではなかったように思えます。しばらくたってから、山の中腹にある 陽太さんの家に戻ると、家族は停電中の家で無事でいました。両親にその日の出来 事を話すと、 「おばあちゃんのお母さん（陽太さんにとっては曾祖母）が、昭和三（一九二八） 年の津波で亡くなっているのよ。きっとひいおばあちゃんが、あなたのことを助け てくれたのね」 厳しいけれど、どこか暖かい声は、きっとひいおばあちゃんだったんだ。陽太さ んは今でもそう信じています。 〇 陽太さんは、東北の大震災の直後、不思議な声を聞いて、その指示の通りに運転したら高台 に無事つくことができた。 家族に話すと、津波で亡くなったひいおばあちゃんが助けてくれたのだと言われた。陽太さ んもそう信じていると言う。 大震災の頃には、こういう体験をした人は、実際には、結構いたのではないだろうか。 科学的な解釈では、たぶん、極限状態の脳が作り出した「幻聴」とでもいうことになるのだ ろう。 最近、似たような話を聞いたので、書き留めておく。 僕の知り合いの人で、高齢で子どもにも恵まれず、夫婦ふたりきりで生活していた人の、旦 那さんが亡くなられた。 奥さんの方は、誰もいない家で、不思議な音を聞いたり、旦那さんが、背後を通り過ぎる気 配を確かに感じた、と言っておられた。 これも、非科学的だと言えばそれで終わってしまうのだが、本人にはそんなことを言っても 通じない。「確かに感じた」と繰り返すばかりで、それを「錯覚」だと言っても、本人はまっ たく説得されないだろう。確かに感じているのだから。 僕には、「霊界がある」とは、さすがに認められないのだが、「流動的知性」が宿った人間 の脳には、こういうことを感じる能力があるのだとは言えるのではないだろうか。 （この項、了） |