ここで前述の例とは逆に母親が授乳する場合の例をあげます。不安のない母親が

　きめこまやかに気を配って授乳しているのを見かけると、何時も私は心を動かされ

　るのです。この場合母親は赤ん坊を快適にし、授乳のあらゆることがうまくいくよ

　うにその場面を整えているのが分かるでしょう。その場面は、人間関係の一部なの

　です。母親が母乳を与える場合に、赤ん坊がどんなに小さくても、母親の皮膚の感

　触やその温かさを感じられるように、しかも赤ん坊から乳房までの距離が測れるよ

　うに、母親は胸をはだけて赤ん坊の手が自由に動けるようにしているのが分かるで

　しょう。というのは赤ん坊は、対象のある世界のほんの僅かな部分、口や手や目で

　確かめることのできる僅かな世界をもっているに過ぎないからです。母親は赤ん坊

　の顔を自分の胸に触れさせます。赤ん坊は生まれたばかりの頃、乳房が母親の一部

　だなんて分からないのです。顔が乳房に触れると、快的な感覚が乳房で起っている

　のか自分の顔で起っているのか、最初は分からないのです。赤ん坊は、あたかも自

　分の頬が母親の乳房であるかのように実際に頬で遊んだり、引っ掻いたりします。

　母親が赤ん坊の望むすべての接触を許すのには、多くの理由があるのです。このよ

　うな赤ん坊の感覚が極めて急激に起ることは疑いもないことです。急激に起る場合

　には、そのことは確かに重要なのです。

　　　　　　　　○　

　…母親は、赤ん坊が顔をそむけた時にどのように対処するのでしょうか？　再び吸

　い始めるようにと乳首を赤ん坊の口に押し込むようなことはしないでしょう。母親

　は赤ん坊が何を感じているかを理解しているのです。というのは、母親は敏感で空

　想力があるからです。母親は待ちます。数分もすると赤ん坊は母親が何時も喜んで

　乳首を差し出している方向にもう一度向き直って、今や吸う時がきたというように

　吸い始めるのです。このようなことが何回か繰り返されます。赤ん坊は、ミルクの

　溜まった物から飲むのではなく、どうすべきかを知っている人にしばらくの間貸与

　されている個人的所有物から飲むのです。

　　母親がこのようなきめ細やかな適応をしうるという事実は、母親は一人の人間で

　あり、赤ん坊がこのことをよく理解するのに長くはかからないということを示して

　いるのです。

　　　　　　　　○

　授乳による乳児と母親の関係、そこから形成される人間関係の初期の状態が、とても微細に

描かれていて、感心させられた。

　母親との授乳の関係が重要であることは、直感的にはわかっているが、うまく言葉化するの

は難しい。ウィニコットという人は、とてもうまく表現できていると思った。

　生まれたばかりの乳児は、母親がわからない。胎内での「記憶」はあるだろうが、それが現

実の母親とは、出生後、直接には結びつかないだろう。

　授乳の関係において、乳房と触覚、嗅覚、味覚、情動を通して、母親との関係が形成され

ていく。授乳は、乳を与えるだけの「作業」ではなくて、主体性を持った母親と乳児との心の

駆け引きだ。

　乳児は、乳房の延長から、母親を認識する。目で見たり、触ったり、匂いを嗅ぐことで、安

心感を得る。うまくいかなければ、不快を感じる。

　それらは、赤ちゃんの人間関係の初期を形成するものになる。

　（この項、了）