約半世紀前、アメリカで��黴菌撃退運動�≠ｪ起こった。この運動の標的になった

　のは、病原菌の運び屋・ゴキブリだった。したがってこの運動は、ゴキブリ駆逐運

　動となった。

　　ゴキブリは、よくご存じのように、キッチンをはじめ、家の中のいろいろな場所

　によく出現する。ときに物置の中でガサゴソと音を立てて駆けずり回っている。ま

　たときには、機嫌がいいのか、部屋の壁さえよじ登っている。

　　このゴキブリだが、さまざまなウイルスやバクテリア、カビなどを日々せっせと

　運んでいる。見た目の悪さもあって、大多数の人に嫌われている。

　　話を戻すと、前述のアメリカのゴキブリ駆逐運動は、ついに効を奏してゴキブリ

　の激減という結果をもたらした。ほとんどの民衆が、

　「これで、清潔で安全な環境が誕生した。もう健康に暮らせるぞ」

　　と思ったのだ。ところが、現実には逆の出来事が起こったのである。

　　数年後のある夏、高熱に冒される子供が、アメリカ各地で続出したのである。そ

　して回復した多くの子供の手足に、重度の麻痺が残ったのである。じつはこれは、

　ポリオ・ウイルスの感染による小児麻痺だった。

　　プールなどでポリオ・ウイルスが蔓延し、泳ぎに来た子供たちに感染したのであ

　る。ゴキブリはすっかり撃退され、清潔な環境になったはずなのに……と、誰もが

　打ちのめされた。

　　　　　　　○

　　病原菌の運び屋である、あの憎きゴキブリが駆逐されたはずなのに、なぜだろう

　か？　たしかにゴキブリは、今でもポリオ・ウイルスをまき散らしながら、駆けず

　り回っている。

　　当然、ゴキブリが駆けずり回っている家では、赤ちゃんがなめ回すものにも、か

　なりの可能性で、ポリオ・ウイルスが付着している。赤ちゃんがポリオ・ウイルス

　に感染する可能性も高いのである。

　　ところが、実際にポリオ・ウイルスが多少入ったぐらいでは、そう簡単に発病し

　ないのである。というのも、赤ちゃんの��なめ回し�≠ﾉよって口の中に入ってくる

　ウイルスの数など、大した数ではないからである。

　　そのほとんどは、口からはいって、前述の「生体防衛ライン」である免疫系・ワ

　ルダイエル扁桃リンパ輪によって取り込まれ、記憶され、同化されてしまうのであ

　る。

　　前述のように、人体のいろいろな部位にある免疫系は、徴菌・ウイルス・異物な

　どの「侵入者」に対して、二十四時間、臨戦態勢にあって、それらを消化したり、

　同化したりしながら、わたしたちの身体を守っている。

　　前述のアメリカの話にまた戻れば、要するに、子僕たちが、ポリオ・ウイルスに

　対する免疫をもっていなかったことになる。

　　いくらゴキブリを駆除して、アメリカ全土が無菌状態のクリーンな環境になった

　としても、周囲の国には、まだポリオ・ウイルスは存在するのである。そしてつね

　に外国人が行き来する。完全密封状態にはできないのだ。

　　ということは、ある地域だけ無菌状態にすることは、かえって危険だということ

　になる。ちなみに、現在では、ポリオ・ウイルスのワクチンが開発されている。ポ

　リオ・ウイルスの毒を薄めたり、無力化したものをワクチンとして接種することで、

　人工的に免疫をつけ、ほぼ完全に予防できるようになったのである。

　　ということは、半世紀前は、ゴキブリが天然のワクチンの働きをしていたことに

　なるのだ。

　　　　　　　　　　○

　なかなか興味深い話だったので、引用しておく。

　アメリカで、「黴・菌」の撃退運動が起こり、ゴキブリを駆逐した時、同時に、ポリオ・ウ

イルスに感染する子供たちが激増したと言う。

　望んでいたことは、まったく逆のことだ。

　「黴・菌」を運ぶものを駆逐すれば、「黴・菌」は減るはずだ、と。

　それは、反対に、子供が、「黴・菌」に接して、免疫反応を発達させるチャンスを奪うこと

になってしまった。

　完全に「滅菌状態」にある、人工的な社会を作ることは不可能だ。

　西原克成は言う、「半世紀前は、ゴキブリが天然のワクチンの働きをしていたことにな

るのだ。」と。

　皮肉な言い方だが、確かにそういうことになると思える。

　口による「なめ回し」と、適度な「汚れ」は、免疫を高める上では、必要なのだ。

　弁証法の「質量転化」の法則だ。

　（この項、了）