心室頻拍にショックを与え、命をつなぎ止めるのは、簡単だ。必要なのは、わず

　かな電気による揺さぶりだけなのである。だがタンさんは蘇生拒否をしていた。マ

　ック医師は、彼の今の状態を心肺停止と判断し、除細動機による蘇生措置を施すこ

　とはできなかった。私はベッドの脇に立って彼の冷たい手首を握り、固まりつつあ

　る顔を見つめ、呼吸が止まるのをただ待っていた。

　　　　　　　○

　　事実、彼には脈がなかった。血液循環は止まり、秒を追うごとに冷たくなってい

　たが、それでも穏やかに、順調に呼吸を続けていた。

　　マック医師が言った。「そうだ、彼の脚をちょっと動かせば、心房細動状態にな

　って、脈が戻ってくるかも」

　　ためしに脚を動かしてみると、手首に脈が戻った。不均等で弱々しくはあったが、

　それでも脈だった。脚を下ろすと脈は消え、タンさんはふたたび死へと向かい始め

　た。

　　だが、それだけではなかった。脈が戻った瞬間、タンさんの瞼が小刻みに震えて

　開き、瞳が下りてきて、まっすぐに私を見たのだ。一瞬私たちは、お互いを見つめ

　合った。まるで、瞳の奥にある彼のすべてが見えたかのようだった。同じように彼

　も私の瞳を見ている。

　　見つめ合っていると、ヒルデガルトの死についての言葉が頭に浮かんだ。

　「それは、魂が、アニマが、片足をこの世に、もう片足をあの世に置き、どちらへ

　行けばいいのか分からず立ち尽くしているようなものである」

　　まさにそのとおりだった。メン・タンさんは決めかねていたのだ。生と死の中間

　にいたのだ。覗き込んだ彼の目は柔らかく光を放ち、ほとんど緑に近い色をしてい

　た。まるで降っていた雨が残した小さな池のように、澄み切っていて静かだった。

　彼は生きることに決めたのだと、私は感じた。自分がうなずいたのかどうか、私は

　憶えていない。だが私もタンさんも、「戻ってくるのだ」と分かったのだ。

　　　　　　　　○

　　私がメン・タンさんの名前を呼びながら体を揺さぶると、マック医師も彼の脚を

　持って動かし始めた。何度か、顔を引っぱたいた。するとメン・タンさんの脈が戻

　り、やがて安定したリズムを刻み始めたのだ。彼は瞼を開き、じっと私を見つめた

　のである。

　　　　　　　　○

　　マック医師と私は顔を見合わせた。

　「そうだ、ブランケットだ」私はさっきの白黒映画を思い出した。ほかには、お湯

　の入ったボトルも必要だ。私たちの非蘇生措置の努力を見ていた看護師も、暖かい

　ブランケットと新しいシーツ、それに点滴を取りに走った。もうタンさんは死者で

　はなく生者である。点滴を使うこともできるのだ。

　　ブランケットで体をくるみ、点滴を始めた。その間もマック医師と私は、彼の脈

　が途切れたり、意識が揺らいだりするたびに、体を揺さぶり続けた。ゆっくりと彼

　の顔に赤みが差し、体温が上昇し、それから突然、ぱっと目を開いた。私を見てに

　っこりと笑った。

　　看護師は首を振って、小さくつぶやいた。「こんなの見たことない」

　　私だってそうだ。

　　　　　　　　　○

　とても感銘を受けた。

　知人のタンさんに死が近づいていた。

　心臓に電気ショックをかければ、復活することはわかっているのだが、蘇生措置を拒否して

いるためにそれができない。

　脚を動かすと、わずかに脈が戻ってきた。

　その時、タンさんの瞳が開き、筆者と一瞬、目が合った。

　死に向かいつつあったタンさんは、筆者に伝えたいことがあるように、見つめあった。

　この時、タンさんは、「生と死の中間にいるのだ」と筆者は、直感している。

　そして、タンさんは、何かを思い出したように、再び、生の方に戻ってきた。

　看護師は、「こんなの見たことない」と驚く。

　その後、タンさんは、日常生活ができるまでに回復したそうだ。

　筆者は、生と死の中間がありえることを、確実に実感している。

　「魂」（アニマ）の存在を実感している。

　現代のように、蘇生措置が行われる段階では、生と死の中間（アニマの感覚）を感じること

はできないのではないだろうか。

　昔の人は、こういう瞬間があることを、よく感じ取っていたのではないだろうか。

　そして、死の途中から引き返してくる人たちも、たくさんいたのではないだろうか。

　だから、昔の人の方が、人間の魂（アニマ）を感じやすかったのではないだろうか。

　　　　　　　　○

　僕は、親しかった人の死を思い出した。

　その方は、家族の中で孤立して、衰弱してしまっていた。

　近くの大きな病院に連れて行ったのだが、「特に異常はないから」と言われて、「せめて一

晩だけでも入院させてやってくれ」と言っても、受け入れてもらえなかった。

　その一週間後に、その人は亡くなった。

　別の病院に入院して、すぐのことだった。

　そんなことがありえるのだろうか？！

　その人は、生と死の中間にいて、孤独の中で、「死」を選んだのではないだろうか。

　そういうことはありえるのではないだろうか。

　（この項、了）