「内臓感覚」ノート


212・「9・11」の神

  一メートル先も見えないなか、ディフランチェスコは手さぐりで降りていった。

 そうして衝突のあった階の真ん中、七十九階か八十階の踊り場で立ち止まった。煙

 にたじろぐ彼の周りには、同じような十数人の人びとがいた。コンクリートの床に

 顔を押しつけ手を伸ばしている人もいれば、隅にうずくまってあえいでいる人もい

 る。崩れた壁に阻まれてこれ以上先へ進めないのだ。彼らの目にはパニックが、恐

 怖が見てとれた。泣いている人もいる。しだいに意識を失っていく人もいる。その

 とき、はっとするようなことが起きた。「誰かに立ち上がれと言われた」。誰かが

 「僕を呼んだ」と彼は言う。男の声だが、そのとき階段にいた誰のものでもないそ

 の声は、さらに「立ち上がれ!」とせき立てた。その声はディフランチェスコの名

 前を呼んで励ました。「それは『さあ、おまえにはできるはずだ』と言っていた」。

 しかも、声だけではなかった。確かな存在としてはっきり感じられたのだ。

  その日、多くの人にとって一瞬の判断が生死を分けた。ロン・ディフランチェス

 コの場合、違っていたのは、決定的なその瞬間に、外の世界にあると思われる何か

 から助けを得られたことだ。「誰かに助け起こされた」ような感覚があった。そし

 て導かれているように感じた。「階段のところへ連れていかれた。手をつかまれた

 わけではなかったと思うが、連れていかれたのはたしかだ」。ディフランチェスコ

 はふたたび降り始め、やがて小さな明かりが見えた。明かりの方向に向かって、階

 段をふさいでいる崩れた壁や瓦礫をかき分けて進んだ。すると目の前に炎が現れた。

 火を見て思わずひるんだが、またしても誰かが助けてくれた。「天使」はせき立て

 続けた。「まだ危険があったから、それは僕を階段まで連れていき、通り道を聞か

 せ、炎のなかを駆け抜けさせた。……確かに誰かに励まされていたんだ。そうでな

 ければ行くはずがない、火に向かってなんて……」。ディフランチェスコは前腕で

 頭を覆い、いつしか走りながら降り続けていた。炎が体を焦がした。火は三階ほど

 にわたって続いていた。そうしてついに、炎を抜けて視界の開けた明るい七十六階

 にたどり着いた。そのとき、この五分間そばにいて助けてくれた何者かの感覚が消

 えた。「あそこで僕は放されたと思う」とディフランチェスコは言う。

        ○

  ロン・ディフランチェスコは、午前九時五十九分に世界貿易センターの南棟が崩

 壊する前に脱出した最後の一人だった。南棟は十秒で崩壊し、猛烈な爆風と膨大な

 粉塵の雲をまきあげた。9・11委員会の公式報告書によると、ユナイテッド航空

 一七五便の衝突中心地点である八十一階より上層から逃れたのは、ディフランチェ

 スコを含めてわずかに四人だった。南棟が崩壊する少し前、建物内にいたニューヨ

 ーク市警の警官は、二十数階で階段を降りてくる人びとの列に出くわしたと報告し

 ている。そのなかに生存者はいないが、この人びとは衝突地点より上層階から降り

 てきたとみられている。そうだとすればディフランチェスコについてきたことにな

 るが、そこにはわずかな遅れがあり、数秒の差が命取りになったと考えられる。デ

 ィフランチェスコは、今にいたるまで、多くの人びとが命を失ったのに自分が生き

 残った理由はわからないという。しかし、脱出できた理由については確信している。

 信心深い彼は、あれは神の介入だったと信じている。

(『サードマン』 ジョン・ガイガー)

         ○

 ディフランチェスコは、9・11のビル爆破テロから、奇跡的に生還を果たした。

 極限の状況の中で、もうダメだと思ったとき、どこか「外部」から、励ます声が聞こえ、誰

かが指示を与え、それに沿って身体を動かしてくれたと感じた、と言う。ディフランチェスコ

は、それを「神」だったと考えている。

 『サードマン』では、極限状況から生還した人々のエピソードをたくさん集めている。

 少なくとも、極限状態の人間に、何らかの「生存本能」が呼び起こされたのだと考えること

は可能だろう。

 それは、どこから来るのか。

 大脳新皮質よりも、もっと奥の、情動の領域か、あるいは、身体のもっと奥深くの「内臓感

覚」からやってくる感覚だと言えないだろうか。

 (この項、了)

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