（※ドクター・ヘリオットは、床屋ジョシュ・アンダーソンの犬に麻酔をかけ手術をしたが、

犬が麻酔から戻らず、呼吸も停止してしまった。）

　　ああ、こんなことがあっていいものか！　私はヴィーナスの後脚を一本ずつ手で

　つかみ、頭上で振りまわしはじめた。時には高く、時には低く、しかしかなりのス

　ピードを保ったまま、振りまわす手に力を込めた。この蘇生術は今や時代遅れにな

　っているように見えるが、当時は大いに流行していた。息子にはこれがひどく受け

　て、笑いに笑い、芝生の上を文字どおり笑い転げた。

　　　　　　　　○　　　

　　手を休めては、ぐったりしている毛むくじゃらの塊を芝生に降ろし、それからま

　た振りまわしはじめるということを、何度繰り返したかわからない。しかしついに、

　何度目かの休止時に、胸郭が膨らみ、目が瞬きをはじめた。

　　叫び出したいほどの安堵感から、私は崩れ落ちるようにして、ひんやりとした芝

　生に顔を埋め、緑の草の乗越しにヴィーナスを覗いた。犬は呼吸が規則的になり、

　唇を舐めて、あたりを見まわした。

　　　　　　　○

　　私は言葉を呑み込んだ。「なにもありません、アンダーソンさん。問題なしの処

　置でしたよ」真っ赤な嘘だが、それだけに私は窒息する思いだった。後味の悪い罪

　障感が強烈に残った。

　「素晴らしい、なんて素晴らしいんだ。感謝感激ですよ、ヘリオット先生」彼は子

　犬の上に身を屈め、よく見ると今度もまた、指先で犬の毛を捩り合わせるという奇

　妙な行動を始めた。

　「ヴィーナスや、おまえは空を飛んでいたの？」彼は漫然と呟いた。

　　私は首筋に寒気を感じた。「そんな……どうしてそんなことを言うんです？」

　　彼は例のこの世のものとも思えない深みのある目で私のほうを見上げた。「べつ

　に、その……ただちょっと、眠っている間、犬は空に浮かんでいると思っていたか

　もしれないと、そう思いましてね。私自身の奇妙な感覚にすぎませんよ」

　「ああ、なるほど、そうね、そう……確かに」奇妙な感覚に捉われたのは私のほう

　だった。

　　　　　　　　○

　ヘリオットは、犬を振り回して、なんとか犬を蘇生させるが、床屋のジョシュは、犬の毛に

触って、犬が「空を飛んでいた」と感じたと言う。

　その後、ジョシュの店に行って、髪を切ってもらった時のこと。

　　　　　　　　○

　　私はほっと溜息をついて、ゆったりとした気分になった。鋏の作業は痛みもそこ

　そこにすぎず、しかもなんとしたことか、床屋は前回以降、鋏を研いでいたのだ。

　トマトという魅力的なテーマを心に思い浮かべて、あれこれ考えようとしていると、

　床屋の声が私を現実へ引き戻した。

　「ヘリオット先生」彼は私の髪をひとつまみつかみ、捩っていた。「庭いじりは私

　も好きなんですよ」

　　私は思わず椅子から跳び上がりそうになった。「それはまた不思議だね。私もち

　ょうど庭のことを考えていたんですよ」

　「はい、はい、わかっていますよ」人差し指と親指で毛を捩りに捩りながら、彼の

　目はなにか遠くのほうを見ているようだった。「髪の毛から伝わってくるんですよ。

　わかります？」

　「えっ？」

　「先生の考えていることですよ。それが伝わってくるんです」

　「そんなばかな！」

　「いや、ほんとうです。考えてもくださいよ。この毛は頭の中から生えているんで

　す。だから脳の信号をキャッチして、私に伝えるんですよ」

　「まさか、そんな。冗談でしょう」私は大声で笑ったが、それにもかかわらず、そ

　の声にはどこか虚ろな響きがあった。

　　ジョシュは首を振った。「これは冗談でも悪ふざけでもないんですよ、ヘリオッ

　ト先生。私はこのゲームをもう四十年近くもやっているんです。その間ずっとゲー

　ムがうまくいっているんですよ。先生がなにか頭に思い浮かべたことを私が当てた

　ら、びっくり仰天するでしょうね。ただしゲームは一回だけですよ」

　　　　　　　　○

　床屋のジョシュは、髪を捩っていると、髪を伝わって、相手の考えていることがわかると言

う。愛犬の毛も触っていて、「空を飛んでいる」と感じたのだろう。

　床屋のジョシュは、本当に不思議な能力を持っていたのだろうか。

　それとも、偶然の一致なのか。

　今となっては確認のしようもない。

　だが、こんな人はありえるのではないだろうか？

　少なくとも、まったく否定してしまうことはできないのではないだろうか。

　もしも、何となくわかる力を持っていたとしても、ジョシュは、人前ではそれを見せない方

がいいと感じていたに違いない。「ゲーム」に留めておいた方がいい、と。

　ドクター・ヘリオットが書き留めていたので、記述として残っているが、それがなければ、

「変わった人」として忘れ去られてしまったことだろう。

　（この項、了）