『動物感覚』ノート(5)


9、「自傷行為」の意味

  動物と同じように、かなり多くの自閉症の人−−全部とはいわないが、少なから

 ぬ自閉症の人−−は、自閉症でない人よりも痛みを感じていないように振る舞う。

 これはしょっちゅう見られることで、痛みに対する感受性がにぶいことは、自閉症

 の症状のほとんどのチェックリストにあげられている。自傷行為がある幼い子ども

 の場合は、とりわけ衝撃的だ。自分の手で頭を強くひっぱたいても、ちっとも痛く

 なさそうな子どももいる(ほかの自閉症の子どもは自分で顔をひっぱたいて、それ

 から泣く)。熱いストーブで手にやけどをしても、反応を示さない自閉症の子ども

 の報告例すらあるが、これは、幸いなことに、めったにない。自閉症の子どもは、

 知らないうちに自分を傷つける危険があるほど、痛みに対する感受性がにぶいわけ

 ではない。

  もうひとつ興味深いのは、自閉症の子どもたちには、冷たいものに対しても、ふ

 つうの感受性がないと語る親が多いことだ。ふつうの子どもたちはしばらく水浴び

 をしたら、体を温めるためにプールサイドにあがってくるのに、自閉症の子どもは

 プールの深いところで、氷のように冷たい水に何時間もつかっていることがある。

 「自傷行為」についても、この十年くらい、ずっとひっかかっていることだったので、とて

も参考になった。

 かつて僕のいた養護学校で、「自傷行為」の激しい生徒が、ふたりいた。

 ひとりの子は、不安定になると、顎を殴っていた。顎がはれ上がって、血が浮かんできて

も、唸り声をあげながら、殴っていた。あまり殴り過ぎて、骨折したこともある。

 もうひとりの子は、不安定になると、自分で自分の頬を叩いていた。奇声をあげて、涙を流

して泣きながら、ほっぺたを叩いていた。ほっぺたは腫れ上がり、顔が膨れ上がっても、叩く

のをやめなかった。

 ふたりとも、知的には遅れがあり、発語はない。

 どうして、そんなことを突然やり始めるのか、何が原因なのか、誰にもわからない。

 一度、自傷行為が起こったら、止める術はない。止めようとするとかえって不安定になるか

ら、結局、担任は、彼らが自分からやめるまで、放っておくしかなかった。

 ふたりとも、とても印象深い生徒だったのだが、僕は違う生徒の担任だったので、微細な観

察までは、できなかった。

 「自傷行為」とは何だったのか。

 

  動物の情動にいちばんしてはいけないのは、ひとつだけ。恐怖を感じさせること

 だ。恐怖は動物にとってなんとしても避けたいもので、痛みよりもよくないと思う。

 こういうと、かならず驚いたような顔をされる。ものすごく痛いのと、ものすごく

 怖いのと、どちらかを選ぶとしたら、たいていの人は怖いほうをとるだろう。

  なぜなら、人間は恐怖を抑制する力が動物よりも強いからだと思う。私の推測で

 は、動物とふつうの人の感じ方は、恐怖と痛みの場合、ほぼ同じ理由で正反対にな

 る。理由とは、前頭葉が機能するレベルのちがいだ。初めてこの考えが頭に浮かん

 だのは、痛みと恐怖の状態にある前頭葉について相次いでおこなわれた二件の研究

 報告を読んだときだった。活発な前頭葉皮質は痛みの増加とともに、恐怖の減少に

 も(不安を減少させるわけではないが)関連しているという記述が目にとまった。

 痛みと恐怖は、少なくともこれらの調査によると、正反対だった。もちろん、話は

 それほど単純ではないが、もっといろいろなことがわかるまでは、動物は人間より

 も痛みを弱く感じ、恐怖を強く感じると私は考える。少なくとも条件つきで私がこ

 う考える理由はもうひとつあり、自閉症の人の場合と同じだからだ。一般に自閉症

 の人は、そうでない人とくらべると、痛みを弱く、恐怖を強く感じ、前頭葉が脳の

 ほかの部分を抑制する力が弱い。この三者は関連している(自閉症の人はちっとも

 痛みを感じないから痛み止めなどいらない、などといっているのではない。そうい

 う印象は与えたくない)。

 人間なら、普通なら、恐怖と痛みの場合、恐怖をとる。自閉症者は、恐怖と痛みなら、痛み

の方をとる。「痛み」の方が耐えやすいからだ。動物も、そうだ。

 「自傷行為」は、恐怖による不安定よりも、「痛み」の方が耐えやすいことから来る行

であるように見える。逆に言えば、自傷行為の時の、彼らの「恐怖」は、顔が腫れ上がるく

らいに叩いたり、骨折したり、血が出るほど殴ったりする「痛み」と同等か、それ以上のもの

であると言えるのではないか。恐怖から来る不安を、「痛み」によって打ち消そうとしてい

る、と考えられるかもしれない。

 彼らの姿を、久しぶりに思い出して、感慨が深かった。

  (つづく)

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